早朝。早速一は須賀を龍門渕邸へと呼び出した。
昨日のうちに番号は登録済みだ。これが一の携帯に入る最初の男の番号だったことが、妙に悔しい。
約束の時間だ。一は須賀から到着の連絡を受け、外へと向かう。
「……衣?」
部屋の扉を開けると、そこには衣が待ち構えていた。
「衣も今日は見届けるぞ」
「む」
「さしずめ、今日は須賀の能力を測るといったところだろう」
驚いた。衣に今日の予定を言った覚えはないというのに。
「図星か?」
「……まあね」
「ふふ、ならば衣がいても問題ないだろう」
衣は意気揚々と玄関へと駆け出して行った。
なるほど、須賀に会いたい一心というのは、思考能力すらも底上げしてくれるようだ。
一もきっと、逆の立場であればそうなっていたのかもしれない。例えば、今外で待っているのが須賀でなく透華であったならば。
「バカバカしい……」
一は頭を振って思考を外に追い出す。
そんなことを考えるより、今はやるべきことがあるはずだ。
一も衣の後を追うように、玄関に急いだ。
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「今日はお前の能力を見るぞ」
一は開口一番言い放つ。
「能力? 一体どういう……って衣、髪の毛引っ張るなっての!」
「寝癖だ寝癖っ。直してやっているのだ!」
「ああもうじゃれあうなっ! ……この家に入ると言うことは、それ相応の実力があるという証明だ。学力、財力、権力……」
「げ、そんなもんねーぞ俺には」
「誰もそんなものは期待していない」
そう言うと、一は庭園の中心にあるテラスへと向かう。
慌てて須賀と衣もついて来る。
「お前にやってもらうのはこれだ」
「ティーセット? 紅茶試験ってわけか」
「紅茶も満足に淹れられない男は、この家に足を踏み入れる権利はないからな。審査員は……」
「衣だ!」
「はぁ……ああ、衣とボクだ」
本来ならば一一人での審査で、文句のつけようはいくらでもあったのだが、衣も一緒となるとそういうことは出来そうにない。
「僭越ながら私も」
「は、萩善っ! いつの間に……」
相変わらず神出鬼没な男だが、こういった技術に関しては最高級の力を持っている。これでますます一は不正を働くことなどできなくなった。
「(とはいえ、冷静に考えてもボクや萩善の舌を満足させられるものを出せるとは思えない。この勝負、はなから決まっているんだ)」
一もここに来て初めて、紅茶の奥深さを学んだ。
一手上手くいっても、次の一手で台無しにしてしまうことだってある。
積み重ねた努力がなければ、美味しい紅茶を出すことなど不可能だ。
一も尽力しているが、まだまだ萩善のような超人の作るものには敵わない。
「審査の結果不合格であれば、お前はもうこの家の敷居を跨ぐことはできなくなる。いいな」
「ああ、分かった」
「よし、じゃあ準備しろ。今日は特例で、厨房を使うことを許可するから」
「それでは、私がご案内致します」
「す、すんません」
萩善に連れられて、須賀は家へと向かっていく。
これが最初で最後の訪問になるのかもしれないなと、一は少し感慨深げにその背を見送った。
このような形で透華と須賀の間を引き裂くのは、一といえど心苦しい。だが、やはり二人が一緒であることには耐えられないのだ。
きっと須賀では透華を幸せに出来ない。身分が違いすぎる。心が通じ合っていたとしても、住む場所が違えばその思いは届かない。
透華は悲しむかもしれない。だが、やはりこれが最善なのだ。一はそう結論付けていた。
「……? 衣、随分楽しそうだね」
「ふふふ、透華から色々と聞いているのでな」
「何の話?」
「すぐに分かる」
衣の妙な自信が気になった一であったが、どの道結果は変わらない。
須賀は消え、透華はまたいつも通りに戻るのだ。きっとそうだ。
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「なっ……」
一は思わずカップを取り落としそうになった。
須賀の淹れた紅茶を飲んだ瞬間、思わず声が漏れた。
美味い。それは自分が淹れた紅茶と大差ないほどに洗練された味だった。
まぐれで出せる味ではない。練習して、努力して、そうしてやっとたどり着ける領域だ。
その場所に、こんな冴えない男がたどり着いたと言うのか。一には信じられない。
「ふふ……一、随分と驚いているな」
「こ、衣?」
そうか、さっき言っていたのはこういうことだったのか。
理由は分からないが、須賀は紅茶の心得があったのだ。
「……すっかり騙された。まさかこんな技術があるなんてね」
「別に隠してたわけじゃねーんだけど……」
「一体どこで学んだ?」
「師匠に……」
「透華にっ!?」
そう言えば、透華は清澄でも紅茶をたしなんでいると言っていた記憶がある。
あの中で紅茶を淹れる技術がある人間がいるとは思えなかったので、てっきり透華が自ら腕をふるっているのかと思ったが、そうではなかったようだ。
一は力が抜け、どっかりと背もたれに寄りかかる。
ここにきて、まさか透華に邪魔されるとは思わなかった。間接的にとはいえ、このことは透華から一へのメッセージのようにも受け取れたのだ。邪魔をするなという旨の───。
「さて一、この結果をどう受け止める? 衣はこの味に満足している。十二分に良くやったと言えるだろう」
「私も同意見です。水準以上には達していると思われます」
二人の言葉を受けては、一も何も言い返すことは出来ない。
元より、文句のつけどころもありはしない。
「───合格だ」
声に出した瞬間、一はすっかりと体に力が入らなくなってしまった。
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試験はまだ終わりではない。一は次なる壁を考えていたが、中々に思いつかない。
そもそも、家に入るための資格だ何て、透華が聞いたら怒り出しそうな話だ。何度も使えることではない。
人間的にも大した問題がない以上、これ以上須賀をつっぱねるのも難しいだろう。
しかし、だからといって───。
「なあ、国広」
「……何だ」
紅茶試験が終わり、今日の試験は終了となった。
そのまま帰ってもらっても良かったのだが、一は須賀を送っていくことを選んだ。
何故そう思ったのかは分からない。一自身、今の自分の考えがよく分からないのだ。
もう須賀のことを認め、家に入ることを認めてやってもいいのではと思う自分。それでは透華との仲を認めることになるのだからダメだと思う自分。二人の自分がせめぎ会う中、一はどっちつかずな対応しかできていない。
「お前、顔色悪いぞ。大丈夫か?」
「……そうか?」
手鏡で確認すると、確かにどこか生気のない表情をしていた。
情けない。これしきのことで思い悩んで、顔に出ている。挙句、須賀にまで心配される始末だ。
不意に大きなため息が出た。どうやら随分とまいってしまっているらしい。
「その、俺のせいなんだよな」
「うん?」
「俺がその、あの家に呼ばれたりなんだりしたから、こうして国広が疲れちまってるんだろ」
「はは……」
人のいい男だ。
一は須賀を敵視しているというのに。
だからと言って、須賀には衣との遊び相手を断ることも、透華との関係を清算することもしないだろう。いや、出来ない。事は須賀一人の問題ではないのだから。
結局のところ、一も須賀も立ち位置が違うだけで、似たようなものを抱えていたのかも知れない。
一は透華と須賀の関係をゼロにしようとした。須賀は思いの全てに応えようとした。相反する二つの事柄は、実のところ、お互い透華の幸せのことを考えてのことだったのだ。
「お前、透華のこと幸せにするって自信ある?」
「ない」
「……はっきり言うやつだな」
「自信なんかねーよ。俺は普通の人間だ。約束なんてできない。けどな、一緒にいることで誰かが笑っていてくれるなら、俺はその誰かのそばにいる。結果的にそれが幸せに繋がってればいいなって思うよ」
「お前の場合、その誰かが多すぎるだろうが」
「し、しかたねーだろ」
一は須賀のことを誤解していた。
決してこの男は流されているだけの男ではない。
流されたその濁流を取り込んで、一つになれる男なのだ。
濁流はいくつもの分かれ道に沿い、いくつもの流れへと変わっていくが、この男はその全てを取り込んでいこうとしている。
貪欲でどうしようもない馬鹿。だが、それはきっととてつもなく広い優しさである。
「そうだ、ほら、これ」
「ん? トランプか?」
「ちょ、ちょっと見てろよ」
そう言うと須賀は、おっかなびっくりカードを手に取ると、ゆっくりとさばきはじめる。
しゃ、しゃ、と小気味いい音と共にカードが混ぜ合わされ、時にスタイリッシュに、時にアクロバティックに空中を舞う。
「あ」
舞わなかった。ばらばらとカードが崩れ、地面にばら撒かれる。
「な、何やってるんだよ」
「ああ〜スマン! 上手くできそうだったんだけど……」
急いでカードを拾い集める。
こんな路上でカードをなくしたら、二度と戻ってこないだろう。
「……これで全部か」
さっとカードを広げて確認する。
手早くまとめて須賀に渡してやると、須賀は何故か感心した様子で頷く。
「やっぱそういうのできるんだな」
「……カードまとめるくらい、誰だってできるだろ」
「いや、手つきが慣れてるって言うか」
「ったく、そんなことのためにトランプなんか持ってきたのか?」
「あ、いや……その、国広がマジシャンだって聞いてたから、俺もそういうことできたら話題になるかなって……」
「お前、そのために……?」
先ほどの不恰好なさばき方を見れば、唐突に思い立ったことは明白だ。
恐らくは昨日くらいから練習し始めたのだろう。
「ま、前から興味があったんだ。ついでだついで」
「ふん……。そ、そうか」
とてもそうには思えない。
須賀の手つきはおっかなびっくりで、とてもパフォーマンスを楽しんでいるようには見えなかった。
つまり、須賀は一のためだけにこうしてカードの練習をしてきたことになる。
そう考えると恥かしくなってきた。
一は須賀にとって、透華と衣へ向かう途中に存在する壁でしかないはずだ。にもかかわらず、須賀はそんな一にすらも対等の友であろうとしている。
だというのに───。
「須賀!」
「な、何だよ急に」
「最後の試験だ」
「……ああ」
「明日、連絡する場所に来い。透華とどこかへ出かけた時、粗相がないかを確かめる」
「分かった。んじゃ、また明日な」
「……また明日」
一の心は、急激に移り変わりつつあった。
明日の計画を練る一の頭からは、先ほどまで自分を苛んでいた二つの迷いは消えていた。
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明日のことを決めるに当たって、一は色々と不安なことがあった。
何せ、男と二人で出かけるなんてこれが初めてだ。どこに行けばいいかがまったく分からない。
「……萩善、そういうわけで相談に乗ってくれると助かるんだけど」
「ふむ、なるほど」
相談できる人物と言えば、萩善以外に思い浮かばなかった。
同じ男であることだし、何かいい案を授けてくれるかもしれないと踏んだのだ。
「普通に恋人がすることを想像してみればいいと思いますよ」
「こ、恋人同士!?」
そう言われて思いつくことは、そう多くはない。
けれどもそれは、何と言うかとてもじゃないが口に出来ないようなことばかりだ。
「そ、そんな恥ずかしいこと出来ないよ……」
「……先に行きすぎです。誰も恋人同士ですること全てを行えとは言っていません。あくまで初歩的なものでよいのです」
「な、なんだ……。じゃあ、遊園地とか?」
「そうですね、その辺りが適当でしょう」
「うん。ありがとう萩善!」
「……私は特に何もしていないのですけれどもね」