午前九時。天候は晴れ。
 午後には気温が三十度を超える真夏日となるらしい。
 見渡せば、あたりには人、人、人。
 家族連れ、カップル、友達のグループなどなど、様々な組み合わせが溢れていた。

「……なぁ、どうして遊園地なんだ?」

 ここは遊園地だ。
 龍門渕が経営する大規模なこの場所には、季節を問わず多くの人が訪れている。
 
「透華と出かけるってことは、デートだろ。そしたら遊園地に行くに決まってる」
「そ、そうか?」
「そうなんだ!」

 一がここを選んだのには理由があった。
 多くの人が集まれば、当然トラブルが起こる可能性も増す。
 そうした不慮の事態に巻き込まれた時、須賀がどういう行動を取るのかを知りたかったのだ。

「……どうでもいいけどさ。お前、私服すごいな」
「え? そうか?」
「ろ、露出高すぎだろ……」

 透華たちに言われたことはなかったが、確かに言われてみるとそうかもしれない。
 とはいえ、普段からこの服はよく着ているため、別段恥ずかしいと言うこともない。

「今日はボクのことを透華だと思って、透華に接するみたいにするんだ」
「マジか……」
「な、なんだよ。不満なのか?」
「そんなこと言ってねーよ。……こういうとこに二人きりで来るとか、経験ないからさ。上手くやれるか心配っつーか」

 そんなもの一だってそうだ。
 生まれてこの方、男とデートしたことなんてない。
 いや、今日のはデートではない。あくまで透華の代わりとしてシミュレートするだけだ。

「と、とにかく行くぞ。こうしていても時間がもったいない」
「ああ……そうだな」

 入場はフリーパスを使った。
 龍門渕関係者という立場を利用して手に入れたものだ。金のない須賀にとってはありがたい話だっただろう。
 しばらく歩く。ただ歩く。

「……お前、どこ行こうぜとかないのか?」
「ンなこと言われても、俺ここ初めてなんだよ。どこに何があるかだって、今調べてるとこだっての」

 須賀はフリーパスに付属されている園内マップとにらめっこをしている。
 一も実のところ、この中に何があるかまでは知らなかった。だが、須賀の手前、知らないことを悟られるような行動躊躇われた。

「このクリムゾンスマッシュってのは、ジェットコースターか? 超高度からの超スピード落下で、今ならアクセル全開らしいぞ」
「ふ、ふぅん」
「大丈夫か、こういう乗り物?」
「バカにするなよ」

 そうは言ってみたものの、一の頭には嫌なイメージしかなかった。
 子供の頃に乗って、あまりの衝撃に泣き出してしまったことがあるのだ。
 さすがに今泣き出すようなことはないと思うが、自信はない。

「……やっぱやめるか」
「ど、どうしてだよ」

 一瞬、不安が顔に出ていたかと思ってしまった一だったが。

「これ人気ナンバーワンらしい。多分今からスッゲー並ぶぜ」
「あ……なるほど」

 ぽんと手を打ち納得する一。
 確かにこういった手合いは、人気が集中し、乗るまでに時間がかかるだろう。

「こっちのギャレンコースターなら人気なさそうだな。なんかトロッコで洞窟潜るみたいのらしいぜ」
「確かに人気なさそうだ……」
「よし、んじゃあまずこれ行ってみるか!」
「あ、ああ。任せるよ」

 二人並んで歩く。須賀は背が高いので、話すときは必ず一が見上げる格好になってしまう。
 
「……他の女とはこういう所に来ないのか?」
「んなこと言われても困るぞ……。誘いを断るようなことはしないだろうけど」
「ふん、さすがは二股、三股は朝飯前な須賀さんだ。来るものは拒まないってことか」
「と、棘があるなぁ。てか、その第一号は国広だぞ? 俺を誘って遊園地に一緒に行った女第一号!」
「ボ、ボクは今日、透華の代理で来ただけだし、これはシミュレートなんだ! カウントするな!」

 言ってやったという感じの須賀の顔を見ていると、思わず向こう脛を蹴り飛ばしたくなる。
 しかしこらえる。今日の自分は透華の代わり。はしたない真似はなるべく避けたい。

「……さっさと行くぞ」

 須賀の腕を引っつかむと、有無を言わさず歩き出す。
 不承不承といった様子でそれに従う須賀。
 程なく目的のアトラクションにたどり着く。

「お、ただいま0人待ちだってよ」
「はは……本当に人気ないな」
「まあ空いてるに越したことはないって。すいませーん。二人お願いします」

 須賀は暇そうにしている係員に声をかけた。

「はいはい、カップルさま一組ですね」
『なっ!?』

 思わず声が重なった。

「ち、違う。カップルじゃない!」

 一がすぐに訂正しようとしたが、係員は不思議そうな顔をして一言。

「腕組んでらしたので、そうかと思ってしまいました」



 アトラクションに乗っている最中、始終気まずかった。
 そういえば先ほど腕を掴んでから、離すのを忘れていた。
 自分で気付ばよかったのだが、よりにもよって他人に指摘されるなんて。

「はは、何だか恥ずかしかったな」
「……うるさい」
「あれだろ、師匠の代わりだからとか、そういう趣向だったんだろ?」
「え?」

 言われてはっとなった。
 そうだ、今日の自分は透華の代わり。何かあっても、その言葉でごまかせるではないか。

「そ、そうだ! 透華ならそうすると思ったんだ。勘違いするなよ、須賀!」
「しねーよ。ったく」

 よかった。須賀はそれで信じてしまっているようだ。
 その後は普段の調子で話をし、アトラクションの終わりまでいつもどおりで過ごせた。

「刺激のないアトラクションだったな〜」
「そうだね。今時子供でも喜ばないよ」
「んで、もう腕は組まなくていいのか?」
「……と、透華の代わりだからな。腕は組むさ」

 恥ずかしい。腕を組んだ時、先ほどは感じなかったものが急に浮き上がってきた。
 身長差があるので、随分と不恰好に見えてしまうだろう。
 こんな姿、知っている顔には絶対に見られたくない。

『あ……』

 井上純との対面だった。
 しまった。そうだ、フリーパスをもらえるのは自分だけではないのだ。

「ええっと……清澄の須賀だったか」
「そういうあなたは龍門渕の井上さん」
「国広をよろしく頼むぜ!」

 それだけ言うと、井上は颯爽と駆けて行ってしまった。

「ってぇ! うわぁ……絶対今勘違いされたっ! 絶対に!」
「まあ落ち着けって。後でメールでもして事情を説明すればOKだろ」
「う〜〜。そうかなぁ?」
「そうだって。気にすんな。第一、俺と国広なんて接点殆どなさそうなんだし、噂としても弱いだろ」

 考えてみれば、学校も違うし学年も違う二人がこうして遊園地で腕を組んでいるなんておかしなことだ。
 実際に自分の目で確かめなければ、そんなもの信じられないだろう。うん、きっとそうだ。

「分かった。気にしないでおく」
「うし、そんじゃあ次行こうぜ次!」

 須賀はまったく気にしていない様子だった。
 いくらなんでも傷つく。一など恋愛対象にかすってもいないというのだろうか。
 
「(っと、何考えてるんだ。ボクは透華の代わりに来てるんだから……)」

 気を取り直し、再び須賀と遊園地を駆け巡る。
 途中、立ち止まって地図を眺めたり、他の客から写真撮影を頼まれたりと、その度にカップル扱いされ、いい加減一も否定するのが面倒になってきた。
 このまま映画館にでも行けば、カップル割引を平然と受けられそうだ。

「(しかし、この男……。カップル扱いされても平気な顔でいる……)」

 やっぱり不満であった。
 別に須賀のことが好きとかそういうことではなく、自分を女としてみていないのではないかと言う疑念。
 小学生くらいのころは、よく男の子に間違われた。
 その反動からか、進学してからは女らしくするように心がけた。
 だというのに───。

「どうかしたのか? 国広」
「なんでもない」

 恋愛感情なんてこれっぽっちもない。ないが、かといって女扱いされていないのは嫌だった。
 そうだ、今日の自分は透華の代わりなのだ。であるならば、もっとまっとうな扱いをされてもいいはずだ。
 一は須賀と自分とを繋ぐ腕をぐいとひっぱる。密着する体。
 どうだと思う一であったが、その思いとは裏腹に、須賀は意に介した様子もない。
 ならばと今度は足も密着させる。これならばどうだ。

「おいおい、そんなに近づくと転んじまうぞ?」

 何とも淡白な反応だった。
 露出の高い服で、こうまでアピールしているにもかかわらず、随分な話である。

「む〜〜」

 思わずうなり声を上げる一。
 周りでその様子を眺めていた人たちから、くすくすと笑い声が上がる。
 恐らく、彼氏にアピールしているのに相手にされていないとでも思われているのだろう。

「須賀!」
「ん? どうした」
「このアトラクション、よさそうじゃないか?」
「バッシャーマグナム? へぇ、水の中に突っ込むのか」
「行ってみよ!」
「あ、ああ……えらい乗り気だな」

 一には考えがあった。これをやられたら男はいちころだと言う話を聞いたことがある。
 ほどなくしてたどり着いたアトラクション搭乗口。あまり客もいないようでちょうどいい。
 さっそく乗り込み、来るべき着水に向けて準備をする。

「ふふふ……」
「す、すごい楽しそうだな国広。水被るらしいけど、平気なのか?」
「夏だしすぐ乾くって。それに、被るって言っても大した量じゃないだろ」
「かもな」

 いよいよ乗り物が動き出す時間だ。
 ガタンゴトンと音を立てて、ゆっくりと乗り物が動き出す。
 頂上近くまで差し掛かったとき、ふと一は思い出す。

「(……そういえばボク、こういうコースター系大丈夫じゃないんじゃ。いや、でも子供の頃の話だし……)」

 刹那、浮遊感が体を襲う。
 驚きのあまり声が出た。恐怖で体が硬直する。
 怖い、怖い、怖い。落ちていく体は気持ちの悪い浮遊感にさらされ、つかみ所のない状態になる。
 どうしようもなく怖い。地面が近くなる。水の中に突っ込むとあったが、こんな速度で突っ込んで平気なものか。
 ぐっと、手に何かの感触があった。それは自分の手が、隣にいる須賀の手を握り締めた感触だった。
 須賀はきょとんとしているが、一の顔を見ると、しっかりとその手を握り返した。
 瞬間、一は安堵した。浮遊感にさらされ、わけの分からない状態になってなお、隣にいる男が変わらずに手を握り返してくれたことで、心に安らぎが生まれたのだ。
 そして着水───。



「いやぁ、スゲー水だったな。びっちょびちょじゃないか」

 須賀も一も、すっかりと水を被ってしまい、目も当てられない状態だった。
 今はタオルで拭きながら、お互いの服が乾くのを待っている。

「はぁ……こんなはずじゃなかったんだけど」

 濡れた髪や体が男に受けると言う話だったので、軽い気持ちでやってみたらこれだ。
 思いのほか水の量が多く、全身びっちょりでどうしようもない。
 おまけに情けなく須賀の手を握り締め、アトラクション終了後もその手を離すことが出来ない。どうやら恐怖で硬直してしまったらしい。
 
「はは、ま、ほっときゃ乾くって。気にすんなって」
「軽く言ってくれるよ。まったく、こっちは───」

 ふと見ると、須賀はあからさまに一から目を逸らしている。不自然なほどにだ。
 一はよく自分の服を見てみる。なるほど、水を被ったことで、所々透けている。

「───っ!!」

 何も言わずに須賀を引っぱたく。

「痛っ!!」
「変態っ!!」
「だ、だから見ないようにしていたんだろうがっ!」
「ひ、一言言うのが礼儀だろっ!?」

 タオルで前を隠す。そうすると、頭から水滴がぽたりぽたりと垂れてきて気持ちが悪いのだが、タオルは一枚しかないのでそれは拭えない。

「……ったく」
「うわっ」

 突然、須賀が自分のタオルで一の頭を拭いてきた。
 
「な、何するんだよ」
「ちゃんと拭かないとだろ。ほら、じっとしてろって」
「い、いいって。自分で……」

 自分の手は前を隠すので精一杯だった。

「だろ? いいから任せろって」

 須賀は慣れた手つきで一の頭を拭いていく。
 優しく、力を入れすぎず、かといって抜きすぎず、適度な力で。

「……お前、結構うまいな」
「こーいうの慣れてるんだ」
「妹でもいるのか?」
「いや、手のかかる幼馴染が一人な」
「ふぅん……」

 なすがままになっていると、すぐに須賀は一を解放してくれた。
 予想外に気持ちが良かったので、もう少し続けて欲しいくらいだったが、さすがにそれは言い出せない。

「ちょっと髪くしゃくしゃになっちまったな。櫛は……」
「い、いいってそれくらい。自分でやるから」

 さすがにそこまでやられるわけにはいかない。
 服もそれなりに乾いてきた頃だ。一はタオルをベンチに置き、手鏡と櫛で髪型のセットにかかる。
 それにしても、当たり前のように髪のセットまでしようとするとは思わなかった。
 その手のかかる幼馴染と言うのは、どこまで須賀に頼っていたのだろうか……。

「って! お前の幼馴染って、宮永咲のことじゃないかっ!」

 その名前は忘れることが出来ない。
 衣と対戦し勝利した清澄の女だ。
 
「あいつ髪の毛拭くの面倒くさがるから、いつも俺がやってたんだ。んで、俺がやると髪ボサボサになるから、セットまで込みで」
「お前……それ、つまり、一緒に風呂に入ってたってことか」
「ああ……まあ……」
「へ、変態っ!」
「小さい頃の話だっての!!」
「ふん……どうだか。案外中学くらいまでは平気で一緒に入ってたとかあるんじゃないか?」
「…………」
「否定しろよ!」
「いや……風呂が壊れた時とかよく来てたしな……別にその時俺は意にも介してなかったし……」

 一は頭を抱えた。
 中学生で異性が風呂に入っていて、しかもそれが当たり前のようになっていただなんて信じられない。
 もしかすると、須賀が今日一に対し女性を感じていなさそうなのも、そういったことがあるからではないだろうか。

「ボクは……もう何も言えない……」
「何と言うかスマン」

 そういえば咲はやたらと須賀のことを褒めていた記憶がある。
 まるでのろけのように感じたが、中学まで風呂に一緒に入って何もない辺り、恋愛感情はないのだろう。

「何もなかったんだよな……?」
「ないない! まったくなにもないです!」
「そうか……なら、いい」

 正直これ以上須賀の過去を探ると、ろくなことになりそうにない。

「昔は昔だ。そう割り切る。透華もきっとそう言うはずだ」
「そ、そうかな」
「……一応、透華には言わないでおくよ」
「あ、ありがとう」

 透華が聞いたら卒倒するかもしれないから。
 


 遊園地を巡る一日は順調に過ぎていく。
 高速で移動するような乗り物は避け、安全なアトラクションで遊んでいると、自然と空いているものが多くなる。
 ストレスなく遊園地を回り終え、気がつくと既に時間は午後四時だった。

「そろそろ帰らないとまずいかな」
「ん? もうそんな時間だったか」

 須賀もすっかりと時間のことを忘れていたらしい。
 今日一日はどうなるかと思っていたが、予想以上に上手くいった。
 須賀は一の行きたくないコースター系のアトラクションは避けたし、乗り物よりも一との会話のほうを優先していた。
 結果、ゆったりと遊園地を回ることが出来、二人の仲も進展することとなった。

「(いや、今日のボクは透華の代わりなんだから、進展も何もあったもんじゃないって)」

 今から帰れば午後五時くらいには家に帰れるはずだ。
 名残惜しい気持ちもあったが、今日はここまでとして、二人は家に帰ることにした。

「国広、空見てみろ」
「ん?」

 見上げると黒い雲。どうやら一雨きそうだ。

「急いで帰るか」
「ああ、そうしよう」

 二人は急ぎ足で遊園地を後にした。



 叩きつけるような雨が、日中の日差しで熱くなったアスファルトを冷やしていく。
 まるで滝のような雨の中、一と須賀は必死に走った。

「国広! こっち、こっちの軒下!」
「ああ!」

 雨音にかき消されないように大声をあげ、二人は広めの軒下へと避難する。

「すげえ雨だな……」
「うん、まさかこんなに降るなんて……」

 予想よりもずっと早く降り始めた雨のおかげで、先ほどからずっと走りっぱなしだった。
 ようやく休めそうな軒下を見つけたのはいいが、一度休んでしまえばそこから動くことは出来ない。

「傘持ってくりゃよかったな」
「今更言ってもしょうがないよ」

 濡れた服をタオルで拭く二人。
 今日はよほど水に縁があるらしい。

「あのまま走るのは危なかったな。もう雨ですっかり見通しが利かない」
「だね。下手したら車が来ても気づかないかも」

 夏の暑さが嘘のような寒さだ。雨に打たれたせいか、一の体はひどく冷えていた。
 元々露出の多い服であったし、この気候にはいささか厳しいものがあるのだろう。

「ほら」

 須賀が自分の着ていた上着を一の肩にかけた。
 
「お、お前が寒いだろ」
「いいって、お前のほうが体冷やしちゃダメだろ」

 そんなところで女扱いされたって、少しも嬉しくはない。
 けれど、須賀の服は確かに暖かかった。

「……ありがと」

 小さな声で礼を言ったが、雨の音でかき消されてしまったようだ。

「しかし、この雨は結構長く降りそうだな」
「う、うん」

 この雨の中、傘も差さずに走って家まで行くのはかなり難しい。
 かといって、ここで待っていても雨が止む保証なんてない。
 一体どうすればいいのか……。
 降りしきる雨の音だけが響く。
 僅かに一と須賀との間には距離があった。その距離は、手を伸ばせば届きそうな微妙な間隔。
 その距離感が、まさに今の一と須賀の心の繋がり具合を示しているようだった。

「……向こうにコンビニがあったな。俺、ちょっと行って傘買ってくるよ」
「え?」

 唐突に須賀が告げた。
 雨は一向に止む気配がない。確かに傘が手に入るのであれば、それに越したことはないが。

「コンビニって言ったって、この雨の中じゃ……」
「大丈夫だって、サっといってサっと帰ってくれば。国広はここで待ってろ」

 そう言うと、須賀は一目散に駆け出した。
 雨の音に混じって、須賀の駆ける靴音がかすかに聞こえ、そして段々と遠ざかっていく。

「あいつ……この雨の中突っ込んでいくなんて」

 思い切りのいい男だと一は感心した。
 待っていてもどうしようもない。なら動くしかない。それだけのことが即実行できるのは、決断力のある証拠だ。

「まぁ、無謀とも言うんだけどね」

 ……十分程経過しただろうか。
 一は一人、軒下で須賀を待っていた。
 雨が降り続き、気温は下がる。その度に、一は須賀から借りた上着をぎゅっと握り締め、寒さに耐えた。

「早く帰ってきてくれ……」

 一人でいると、何だかより一層寒さが増すようだった。
 誰かがいると言うそれだけのことで、人は安心できるのだ。
 今の一は、ぽっかりと胸に大きな穴が開いたような状態で、気持ちが落ち着かない。
 
「ぉ〜い!」
 
 遠くから声が聞こえてきた。
 須賀だ。傘を差した須賀が、小走りでやってきたのだ。

「う、うわ……すごいびしょ濡れじゃないか」
「はは、そりゃあこの雨だからな」

 一はタオルを手に取り、須賀の頭をがしがしと拭いてやる。

「も、もうちょっとしゃがんでくれ」
「ああ、悪いな、なんか」

 須賀は少しだけ、一と目線が合う程度の位置にまで腰を落とす。

「う……」
「な、何だよ? どうかしたのか」

 目が合った。それだけだ。
 いつもは見上げるだけだったその顔が、目の前にあると言うこと。それが何故か心をざわつかせた。

「何でもない。そのままじっとして」

 力強く須賀の髪を拭いていく。
 拭き終わったら次は体だ。焼け石に水かもしれないが、出来る限りは拭いておきたかった。
 ぽんぽんと、軽くはたくようにして水滴をタオルに吸わせていく。いつの間にかタオルは絞れるくらいの水を吸っていた。

「こんなになるまで……」

 よくよく考えてみれば、別にコンビニへは二人で行っても良かったのだ。
 けれど須賀は一人で行って、一人で水浸しになって帰ってきた。
 一は、須賀の気配りを感じ、どうにもむずがゆくなる。
 こういうことは男がやって当たり前だ〜なんて普段だったら言っているかもしれない。けれど、実際にこうしてやられると、中々にくるものがある。

「あのさ、実はコンビニの傘が売れちゃっててさ」
「え?」
「一本しかなかったんだ」

 須賀の手にある傘は一本だけ。
 突然の雨だ。恐らく需要に供給が間に合わなかったに違いない。

「し、仕方ないな。一本しかなかったんだったら……」
「別のコンビニ探して来るか? もう少し行けばあると思うけど」
「いや! いい、そこまでしなくても……」

 何故か強い口調で、一は須賀の提案を断っていた。
 また一人になるのが嫌だったのか。はたまた再び須賀に気を使われるのを避けたかったのか。

「でも、一本じゃ一人分しか……」
「い、一本を二人で使えばいいだろ」

 一自身、この提案は驚きだった。
 いつの間にか口からすべりでた言葉だ。

「……いいのか?」

 須賀が確認するように聞いてくる。
 言いたいことは分かっている。相合傘となるわけなのだから。
 しかし、一は黙って頷く。

「ほら、早く帰らないと透華も衣も心配するから!」

 一は率先して傘を取り、須賀の腕を掴む。
 ほら、ともう一度促すと、須賀も意を決したように傘の中へと入ってくる。

「俺が持つよ」

 背の高い須賀が傘を持ち、一は須賀に寄り添うように隣に立つ。
 傘が小さいため、かなり密着しなければ濡れてしまうのだ。
 雨粒に当たらないようにするためには、もう隣を歩くと言うよりは、抱きついて歩かなければならなかった。

「家、こっちでいいんだっけ」
「あ、ああ」

 須賀は一のほうを見ずに、まっすぐ前を向いている。
 どうやら気恥ずかしさは同じらしい。

「(こんなところ、知り合いに見られたら何て言われるか……)」

 そう思った直後。

『あ』

 沢村だった。
 どうしてこんな所にいるのか。
 手には傘が二つ握られている。もしかしたら、透華から聞いて一のことを迎えに来たのかもしれない。

「沢───」
「……お幸せに」

 にやりと笑うと、そのまま来た方向へと戻っていく沢村。
 ああ……またか。一はがっくりと肩を落とす。

「あ〜何ていうか、スマン」
「何謝ってるのさ」
「今、多分誤解されただろ。恋人とかそういう感じで」
「……たぶん」
「だから、スマンって。俺の試験のために一緒にいるだけなのに、そんな風に疑われちゃたまらないよな」

 その言葉を聞いた時、一は頭にかっと血が上るのを感じた。

「お前! そういう風に言うのやめなよっ!!」
「く、国広?」
「一緒にいるのが嫌だったら、試験だろうと何だろうと、こうやって肩並べて歩かないよっ!」
「だ、だけど、恋人って思われるのとは違うだろ?」
「そんなの後で本当のこと言えばいいだけだっ! ボクは須賀がそうやって自分のことを言うのがすごくイヤだ!」

 一は、自分でも何を言っているのか、段々分からなくなってきた。
 ただ、思いつくままに言葉を吐き出す。そんな感じだ。
 
「ここ数日、お前のことを試していて、ボクはお前のことを少しずつ知っていった。透華を騙したりとか、嘘の言葉を吐くような人間じゃないって事、ボクみたいなのとでも交友を深めようと思える、広い心の持ち主だって事……。
お前が自分自身を低く言うってことは、ボクや透華の中にある須賀は、嘘っぱちだって言うようなもんなんだ! お前はいいヤツだよ! だから、自分を低く言ったりするな!」

 長く言葉を続けたせいか、息が上がる。
 一が口を閉ざすと、その場には雨音だけが響き渡る。

「……はは」

 唐突に、須賀が笑う。

「俺、てっきりダメなやつだな〜ってみんなに思われているって考えてた。そんな風に言われたことなかったから」
「お前は……ダメなんかじゃない。生まれとか育ちとか、何が出来るとかじゃない。お前はいいヤツだ」
「いいこというな、国広。だけど、ちょっと恥ずかしいぞ」
「んなっ!?」

 そんなことは分かっている。分かっていても、言わなくては気がすまなかったのだ。
 だというのにこの男はぬけぬけと。

「う、うるさいなっ! お前が透華に言ったようなことに比べたら、遥かにマシだよ!」
「お前! 今それを持ち出すのは卑怯だろ!」

 雨音が響く中、二人は歩いた。
 跳ねた水が足を濡らす冷たさや、時折吹く風が運んでくる横殴りの雨粒も気にせずに。
 時折、須賀の肩が傘からはみ出して濡れていることに気づけば、何も言わずに一が寄り、須賀はそれに対し何も言わずに従う。
 言葉はなくとも、そこには信頼があった。
 雨が降る。降り続いている。
 普段なら鬱陶しいはずのその雨のことを、いつしか一はいとおしく思っていた。
 今日という日を演出してくれた雨に、感謝の意を───。
 

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