朝、けたたましく廊下を駆ける音で一は目を覚ました。
ドアを開け様子を見てみると、衣が須賀の部屋へと駆け込んでいく所だった。
「そっか、今日から衣は須賀と遊ぶんだっけ」
衣に引っ張られながら、須賀が苦笑いで姿を現した。
髪もボサボサ、シャツのボタンも開きっぱなし。とても見ていられない。
しかし、一が歩み寄るより先に、衣はぐいぐいと須賀を引っ張っていってしまった。
「……そうだよね。もう、ボクの出番は終わったんだ」
須賀はそもそも衣と遊ぶためにここに来たのだ。
衣を楽しませるために───いや、きっと須賀自身も楽しいのだろうが───ならばそれを損ねるようなことはしないほうがいい。
一は踵を返す。部屋へ戻り、いつも通り家の用事を済ませよう。それが自分の役目なのだから。
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夕刻。一はただひたすらに家の用事をこなしていた。
掃除、洗濯、買い物……。いつも通りのことだ。とりたてて真新しいことなどは何もない。
どこか、楽しそうに遊ぶ衣と須賀を見ないようにしていたのかもしれない。一はそう自己分析し、ため息をつく。
「国広、何ため息なんかついてんだよ」
「す、須賀っ」
いつの間にか一の背後には須賀が立っていた。
昨日の執事服はとうの昔に返却し、洗濯して綺麗になった昨日の服を着ている。一が洗濯したものだ。
「仕事、大変なのか?」
「別に。いつもやってることだよ」
「にしちゃ、随分疲れてるみたいだったぞ」
傍目にはそう見えていたのだろうか。
いけない、透華にそんな所を見られたら、いらぬ心配をかけることになる。
「平気さ。ちょっと昨日、はしゃぎすぎただけだよ」
「はは、そっか」
昨日のことを思い返すと、一は不思議と心が躍った。
遊園地のこと、雨に降られたこと、二人で一緒に帰ったこと。
目の前にいる須賀も同じ事を考えているのか、柔らかな笑みを浮かべている。
「衣はどう?」
「ああ、元気元気! 振り回されっぱなしだよ」
「あはは……衣も久しぶりに遊べる人がいて、はしゃいでるんだね」
透華や一ももちろん衣と遊ぶことはあったが、どうにも全力で遊ぶということはできなかった。
歳相応の照れがあり、子供の遊びだとどうしても思ってしまうのだ。
その点須賀は、どうやら衣と精神年齢が近いようで、全身全霊で衣の要求に応えているらしい。
「そうだ、この服サンキューな」
「つ、ついでだよ。それに執事服で帰るわけにはいかないだろ」
「何かいい匂いするし、家で洗濯したのと全然違うぞこれ。家事スキル高いとこうなるのか?」
「し、知らないよそんなの」
一は須賀の洋服を見るたびに、雨の中相合傘で帰ったことを思い出し、赤面していたのだ。
とても人には見せられないほどに取り乱した表情で、一心不乱に、それでいて懇切丁寧に洗濯をした、ちょっぴり特別な服。
気に入ってもらえてよかったと、一は心から喜んだ。もちろん表情には出さないように努めながら。
「んじゃ、また明日来るわ」
「あ、うん……」
「じゃーな」
須賀が去っていく。
その途端、今までの楽しさが霧散していく。
須賀の後姿が遠ざかるたびに、一は段々と暗い表情になる。
「(ボクは……寂しいのか? どうしてこんなに、心が苦しいんだろう……)」
両手で胸を押さえる。
自分の鼓動が聞こえる。とくとくと脈打つその音は、普段よりも少し早い。
何なんだろう。一は自分の抱えている感情を正しく理解することができそうになかった。
きっとこれは、今までの自分が知らなかった感情なのだ。
一は大きく息を吸い、そして吐く。
「よし……っ」
小さく気合を入れ、残りの家事をこなすことに全力を尽くす。
そうすれば、きっとこのもやもやとした感情も消えてしまうだろうから。
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次の日も須賀は来た。
それを一と衣の二人で出迎える。
衣は朝の七時からずっとはしゃいでいた。
普段なら微笑ましいと思うのだろうが、どうしてか一は素直に笑えなかった。
「今日は何で遊ぶかね」
「きょーたろ! 桃鉄、桃鉄がいいぞ!」
「おいおい、あれは二人じゃちょっと退屈だぞ?」
「じゃあ……一っ!」
「え、な、何?」
「今日は衣たちと一緒に遊ぶのだっ」
「ボクが!?」
一は思わず大声を出してしまった。
衣と須賀と、そして一。その三人で遊ぶと言うことは、何故か一の念頭になかったのだ。
衣と須賀、一と須賀、そして一と衣。互いがペアになることはあっても、全員が一緒にいる光景を、一は思いつかなかった。
「でも、仕事あるから……」
「掃除、洗濯、炊事。確かに重要なことだろう。しかし、だからどうしたと言うんだ」
「ええっ?」
「掃除など一日せずともそう変わらん。洗濯もまとめてやればいい。炊事は……お腹が空くのは少し困るが、その時はその時だ」
「衣……それ全部面倒なこと先送りにしてるだけ……」
「だ、だとしてもだ。それよりもっと大切なことがあるのだっ! 一が衣と一緒に、笑ってくれるということが!」
一ははっとした。
衣には見抜かれていたのだ。
自分が昨日からどうしようもなく心を曇らせていることを。そして、笑っていないことを。
「ま、そういうことなんで、国広も遊ぼうぜ」
「す、須賀まで」
「楽しいぜ、桃鉄。三人ならCPUの変な行動とかも楽しめる。最適な人数だ」
「一、衣は笑っている一が好きだ。怒っている一や、泣いている一よりずっとだ!」
「……あはは。まったく、しょうがないな」
一は心のもやが少し晴れた気がした。
二人の優しさの前には、悩んでいる自分がひどくちっぽけに思えたのだ。
「遊ぼ。目一杯ね!」
「そうこなくっちゃ!」
「ふふっ、それでこそ友だっ!」
もちろん、透華と萩善には連絡をしなくちゃだけど。
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一と衣、そして須賀の三人は、衣の部屋でひたすらにゲームで遊んでいた。
一にとっては随分と久しぶりの時間であったが、少しずつ感覚を取り戻しながら、先行する二人に喰らいついてく。
「ボクはこのしいたけ畑を買い占める……」
「国広が長期的な戦略を練りだしている……負けてられないぞ、衣」
「うむ! 地味に努力する一を容赦なく踏み潰してやろうっ」
声を上げて笑い、口汚く罵ったり、それを根にもたれて逆襲されたり。
一は自分の抱えていた悩みも忘れて、すっかりとゲームにのめりこんでいた。
ふと時計を見ると、既に夕刻。仕事を忘れて、すっかりと遊びほうけるなど、子供の時以来だった。
「続きは明日にしておくか」
「む? もうそんな時間か?」
「ああ、今日はここまでっ!」
須賀はゆっくりと立ち上がると、ぐっと背伸びをする。
「うし、また明日な。二人とも」
「ちょ、ちょっと待て。ボクは……」
「ゲーム途中で投げ出すのか?」
「そういうつもりじゃないけどさ、仕事とかあるし……」
さすがに二日連続で仕事をしないのはどうかと思う。
「ご安心を。私一人でも、仕事には差し支えありませんので」
「萩善っ! いつの間に……」
「そういうわけですので、明日も遊びほうけていて構いませんよ」
「棘のある言い方だけど……萩善がそう言うなら、そうさせてもらうよ」
一がここに来る以前は、家事はほぼ萩善が一人で受け持っていたのだ。
だから一が仕事をしなくても、数日それが元通りになるだけ。大した影響はない。
「……じゃあ、二人とも。また明日も遊ぼう」
「よしきた!」
「うむ、明日も明後日も……ずっとだ!」
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須賀を衣と二人で見送る。
寂しい気持ちはあったが、明日にはまた会えるのだ。
衣を再び部屋へと送りかえし、ベッドに入って眠れば……。
「なあ、一」
「え? 何?」
部屋へと帰る途中、唐突に衣が立ち止まった。
「その……教えて欲しいことがあるのだ」
「はぁ」
衣はもじもじと落ち着かない様子だ。
一にも、衣が何か大切なことを聞こうとしているということは見て取れた。
「聞かせて。どうしたの?」
「その……な。きょーたろといると、衣は少しおかしくなるのだ」
「……どんな風に?」
「その、だな。ここがドキドキとして落ち着かなくて……距離が近づけば近づくほどに、恥ずかしくなってしまうのだ」
「───う、うん」
やられた。大切な話とはこういうことだったか。
まさにそれは恋だ。衣は須賀に恋をしているのだ。
「夏祭りの後くらいからだろうか。その、ふときょーたろのことを考えると、自然と体があっつくなるのだ。それで……」
「わ、分かったよ衣。大体分かったから」
何故か聞いていられなかった。
他人の恋愛話なんて、学校でよく聞いていたのに。
「衣……それは、自然なことっていうか……おかしいことじゃないんだ」
「そ、そうなのか!」
大げさに驚く衣。
きっと自分の体に何か異常があると信じて疑わなかったに違いない。
一は、衣の抱えているものが恋心であるということを言い出しにくかった。
言えば、きっと衣は意識してしまう。意識すれば、さらに好きになってしまうだろう。
「(元々須賀には何人も恋人候補がいるんだ……。これ以上増えたら、大変なことになる)」
しかし、一はそうした言葉の裏腹に、自分の浅ましい嫉妬心があるということを知っていた。
衣と二人で遊んでいた須賀に対してか、それとも衣に対してかは分からないが。
衣が須賀を好きであると宣言した時、きっと今の三人の関係は崩れるだろう。
「教えてくれ、一! それは何と言うのだ。この胸のどきどきは、何と呼ぶのだ?」
「それは───恋、だよ」
言ってしまった。
その言葉の意味は衣も知っていた。ただ、実感としてなかったから、その言葉へと至らなかったのだ。
知ってしまえば、理解は早い。衣の顔は夕日のごとく朱に染まり、それは全身へと広がっていく。
「恋、恋、恋……これが恋なのか」
「きっとね」
「そうか……はは、ははは」
どうしていいのか分からないといった様子で、衣は小さく笑った。
きっと明日から、衣は今までと同じように須賀と接することはできなくなるだろう。
「(どうしてボクは言ってしまったんだ。黙っていれば、今の関係を続けられたのに)」
一は自分で自分のことが分からなくなった。
自分の頭で考えたことと逆の行動をする自分。何かに狂わされているようだった。
もしかしたら、病気なのは衣ではなく一のほうだったのかもしれない。
「衣、部屋についたよ」
「う、うむ……」
心ここにあらずといった様子で、衣は部屋へと戻っていった。
一はそれを確認すると、自室への道をゆっくりと歩き出した。
「明日も、今日みたいに遊べるのかな……」
一はぽつりと呟いた。