気温推定三十五度。猛暑と言っても過言ではない天候。
 太陽がじりじりとアスファルトを焼き、蜃気楼が発生している。
 打ち水をしても意味の無いほどの熱波に、道を歩く人々は皆、顔をしかめていた。
 そんな中、一人の少女は違った。誰もが目を伏せて歩く青空をしっかと見つめ、雲しか漂わぬその景色に思いを馳せていた。
 少女の名は天江衣。
 龍門渕最強の雀士にして、部内最小の体を持つ彼女は、公園のベンチに腰掛けて、ただひたすらに空を眺めていた。

「…………」

 一人であった。
 処女の隣には誰もいない。親も、友も、皆失ってしまったからだ。
 けれども、それを悔いた所で仕方がない。衣はそう理解していながらも、過去の幻視にふけってしまう。
 空を見上げながら、衣の心は亡き両親へと向いていた。
 ふと、底抜けに明るい口笛が衣の耳に届いた。
 見ると、公園に向かってくる男が一人。高校生だろうか、衣は一瞬興味を持ったが、またすぐに心を元通りにしてしまう。
 男はどうやら衣に気づいたようだ。口笛をやめ、まじまじと衣のことを見つめている。

「……何か用か」

 ぶっきらぼうな口調とは裏腹に、外見通りのかわいらしい声が響く。
 男は何かに納得がいったのか、しきりに頷くと。

「そうだ思い出した。君、龍門渕の天江衣だろ」

 男は衣のことを知っているようだった。
 けれども、衣のほうにはとんと見覚えのない顔だ。
 すると、男は言葉を続ける。

「俺、清澄の麻雀部員で須賀京太郎。決勝見てたから覚えてたんだ」

 清澄。衣の心が再び反応する。
 清澄の宮永咲と繰り広げた激闘は記憶に新しい。
 衣に対し、初めて敗北を突きつけた彼女。衣は幾ばくかの恐怖と、そして安堵を覚えたことを思い出す。
 自分にも勝てる存在がいると言うこと。それは唯一無二の強さを誇り、並ぶもののなかった衣にとってはありがたかった。頂点は孤独だったから。
 
「清澄か。ああ、覚えている。だが、お前のことは覚えていない」
「あはは、俺は出てないからなぁ」
「なんだ、それなら覚えているわけないだろう」

 目の前で屈託のない笑みを浮かべる男、須賀京太郎。
 清澄にも男子部員がいると言うことは、透華から聞いたことがあった。
 けれども衣にとってはどうでもいいことだったし、会うこともないだろうと思っていたのだ。

「それで、何か用か」
「用はないけどさ、こんな暑い中いたら、熱射病にかかっちゃうぜ?」

 須賀は衣のことを心配しているようだった。
 何か下心があるのかもしれなかったが、衣の見た限り、そういう狡猾な人間には思えなかった。

「心配してくれるのはありがたいが、平気だ」
「ふ〜ん、そっか。で、さっきから何してるんだ?」
「……空を見ている」
「つまりは暇をもてあましていると」
「なっ……。ち、違うぞ。衣は空に高貴なる思いを寄せていたのだ。雲の流れや日の光が見え隠れするさまを観察したりだな……」
「いや、だってそういうことするのって暇な人じゃない」
「……ま、そうだな」

 衣は言い返すのをやめた。 
 実際、衣は暇で暇でしょうがなかった。
 透華は忙しく勉学に励んでいるし、他の部員も色々とやることがあるようで、時間をとらせるのも申し訳なく思えた。結果、こうして一人で外に出てきたのだった。

「お前のほうこそ」
「ん?」
「こんなところで何をしているんだ」

 衣は須賀に話しかけてみた。
 退屈である心を満たしてくれる───。そこまでいかなくても、多少は何か刺激的なものがあるかもしれないと踏んだのだ。

「俺は……ほら、空を見てる」
「何だそれは。やりかえしたつもりか」
「冗談冗談。俺も暇を持て余してた。友達はみんな旅行で、俺一人家にいてつまらなくってな」

 なんだ、自分と同じか。衣は冷たく微笑んだ。
 世界は明るくきらびやかに見えても、どこかにこうして暗い部分を落としていくものなのだ。
 とはいえ、須賀の退屈と衣の退屈は、同じ言葉でもその意味が違うかもしれないが。

「それで、ゲーム屋にでも行こうと思って」
「ゲーム? テレビゲームのことか」
「ああ、一人で暇潰すって言ったら、やっぱゲームだろ」

 テレビゲームと言われても衣にはピンと来なかった。
 興味がなかったわけではないが、透華がやらないので誰も詳しいところを知らなかったのだ。

「面白いのか?」
「面白いものもあれば、つまらないものもあるぞ」
「う〜む……それは、困るだろう」
「そうだな、面白そうだと思って買ったゲームがつまらなかった時は、もうすげー悔しい」

 過去にそういった経験があったらしい須賀は、思い出すように顔をしかめる。

「けどな、そういうの踏み越えていくのも面白いからな。それに、自分が実験台になれば、他の人はそのゲーム踏んで後悔することはないわけだし」
「自己犠牲の精神か」
「ま、図らずとも誰か他の人が踏んで、俺が避けるケースもあるし。持ちつ持たれつってやつだな」

 須賀にはどうやらそれなりに友達がいるようだった。
 透華にも友達はいる。かけがえのない友達だが、けれどもこうして一人でいると、その繋がりの希薄さを感じてしまう。

「結局、一人で楽しむと言っても、他の誰かの意見などが必要なんだな」
「そうだな。詳しいやつが一人いれば全然違うと思うぜ。一人だったらつまんないの連続で引いて、もう二度とやるかってなるかもしれないけど」

 衣はわりと否定的なニュアンスで言ったのだが、須賀はそれをポジティブに解釈したようだ。
 根が明るく社交的なのだろう。なんとなく衣は感じた。

「天江はゲームとかやらないのか?」
「天江……。衣でいい。苗字で呼ばれるのは堅苦しい。……ゲームはやったことがない。教えてくれる人もいなかったからな」
「師匠……、龍門渕さんとかは?」
「まるでやらない」
「それもそうかぁ」

 須賀は一人で納得して頷いている。
 どうやら透華との面識はあるようだ。師匠、などと言っていたが、どのような関係なのだろう。

「俺でよければ教えられるぜ」
「───え?」

 ふと、気を抜いていた時だったので、つい驚いてしまった。

「だから、ゲームだよ。衣の趣向は分からないけど、何か合いそうなものがあったら、オススメできるっての」
「む、むぅ……」

 衣は悩んだ。
 今ここであったばかりの男が、誘いをかけている。
 これはいわゆるナンパというやつではないだろうか。
 しかし……衣は自分の肢体を眺める。
 年齢とは裏腹に、まるで小学生のような体だ。
 正直、こんな外見の女に声をかける男がいるのだろうか。いや、目の前にいることはいるのであるが。

「ロリコン……」
「ち、違うっての!」
「ゲーム買ってやるからといって衣を誘い出すつもりかっ」
「買ってやるとまでは言ってないだろうか! さりげなく図々しいヤツめ」
「むむ……」
「疑うんなら龍門渕さんにでも、俺の素性を聞いてみろって」
「透華に?」
「ああ、俺が紳士で、成熟した女性に興味を持っていることを断言してくれるはずだ」

 衣は少し考え込む。
 透華の名前を出してきた以上、一応自信はあるようだ。
 意味もなく龍門渕の名前を出して恨みでも買おうものなら、この先生きてはいられまい。そういう危険をおかすタイプには見えない。
 
「分かった。信じよう」
「おお、俺が成熟した女性に興味を持っていることに納得してくれたか!」
「そこは別にいい! ……透華に確認してもいいが、透華は今忙しい。今はお前を信じることにする」
「いやぁよかったよかった」

 能天気に笑う須賀の顔を見ていると、疑うことが馬鹿らしく思えた。
 
「んじゃま、行きますか」
「ああ」

 須賀の横。少しだけ距離を開けて衣は歩き出す。
 歩幅が違いすぎて、須賀がすぐに衣との隊列を崩してしまうことが悔しかった。
 しかし、数メートルもすると須賀の方から歩幅を縮め、衣に合わせてきた。中々に気を回す男だと衣は感心した。

「あ、ちょい待って」

 須賀はそういうと、自動販売機に向かう。
 ややあって缶ジュースを二つ手にして戻ってくるなり、須賀はその片方を衣に手渡した。
 
「暑い時は水分補給をちゃんとしないといけないんだぜ」
「……衣にくれるのか?」
「もちろん」
「すまない、今は持ち合わせが……」
「バカ言うなって。缶ジュース一本でガタガタ言うほどみみっちくねえって」

 気前のよい男だった。
 プルタブを開け、ジュースを一口飲む。
 人口甘味料の作られた甘さが、無果汁だというのに果実の味を醸し出している。非情に安っぽい味であったが、何故か夢中になって飲んでしまった。
 
「すごい勢いだな」
「ん……ふぅ。こういうものを飲むのは久しい」
「これが庶民の味ってやつだぜ」
「……知っている」

 衣も昔であれば駄菓子にジュースと、子供の味覚を刺激するそれらをいくらでも欲していた。 
 けれども、今の家へと移ってからは、そうした欲求すらも抑えられていた。無意識のうちに、大人であろうとしたのかもしれない。
 
「俺のも飲むか?」
「いや、いい。それよりも目的地に向かおう」
「おう」

 再び歩き始めた二人。
 須賀は他愛もない話を振り、衣もそれに応じる。
 天気、学校、それに部活の話……。とりとめのない会話ではあったが、衣にとって、見知らぬ人間と交わすこうした会話は実に刺激的だった。
 自分の知らない世界で、自分の知らないことが起きている。衣は自分のの両目よりも、ずっと広く世界が広がっていることを実感する。家に帰れば、すぐに視界は狭まってしまうのだろうけれど。



 十分ほど歩いた時、ふと須賀が立ち止まり、きょろきょろと周りを見渡し始めた。

「どうかしたのか?」
「いや、この辺懐かしくってさ」

 この辺りは龍門渕の所有する小さな山と雑木林がうっそうと茂る、自然の地だった。
 鳥のや蝉の鳴き声が響きあい、風情を醸し出している。

「昔、この辺りに秘密基地を作ってて」
「基地!? お前は建築士なのか?」
「いやぁそんな大層なもんじゃないって。浅い洞窟の前に木を組んで、それで家っぽく見せてただけだ」
「ふむぅ……」

 秘密基地。衣も聞いたことはあったが、実際に作ったことも入ったこともなかった。
 故に、一体どういう作りで、どういう内装になっているのかなど、まるで検討がつかなかった。

「見てみたいぞ!」
「マジかよ。雨風にさらされてるだろから、原形とどめてるかどうか分からないぜ?」
「うむ、それでもいい。そこに何かがあったという痕跡を、この目で見てみたい!」

 衣の心の中には、まだ見ぬ秘密基地への想いで一杯だった。
 知らないものを見てみたい。その気持ちだけで体が熱くなる。

「よし、んじゃあ行って見ますか」
「おー!」



 山を登ること五分。
 山といっても、実際は小高い丘程度のもので、人が歩きやすいように階段まで設置されている。
 舗装された道を、二人はゆっくりと歩いていく。

「しかし、お前も度胸があるな」
「何がだよ?」
「ここは龍門渕の土地だ。下手をすれば、不法侵入だとかで捕まっていたかもしれないぞ」
「マ、マジかよ!」
「何だ、知らなかったのか。無知ゆえの勇気、無謀と言うやつだな」
「子供の頃にそんな知識あるかっての。……ちなみに今も絶賛進入中だけど、平気なのか?」
「衣がいる。何かあっても不問になるだろう」
「おお……すごいな……」

 もっとも、向こうは衣が何をしようとも手を出してくることはないだろうが。
 
「それで、まだなのか?」
「子供の頃の記憶だからな……目印とかあったはずだけどっと。これかな」

 目の前には二股に分かれた大きな木があった。
 何の木なのかは分からなかったが、非情に特徴的な形をしている。

「これが目印だったはず」
「なるほどな、木であれば、そうそうなくなったりはしない。よく考えたものだ」

 そのまま進んでいくと、やがて小さな洞窟が見えてきた。
 穴の大きさは縦横一メートル四十くらいで、衣ならば入れそうだったが、須賀の身長ではかなりきつそうだった。

「これだな」
「……これが基地だったのか」

 洞窟の周りには、確かに何か木の残骸のようなものが転がっていた。
 折れた枝を組み合わせていたのであろうそれは、雨や風による影響を受け、すっかりと風化してしまっている。
 荒廃した秘密基地を見ても、衣は特に落胆しなかった。
 元々の形を知らないのだから、当然なのかもしれない。 

「やっぱ持たなかったかぁ。頑張って作ったんだけどな」

 須賀は残念そうに呟く。
 衣は、そうした心を持てなかったことの方が残念だった。
 
「中を見てもいいか?」

 洞窟の中は薄暗かったが、穴の内部はかなり狭いようで、薄く差した日の光だけでも十分に視界が確保できていた。
 
「ああ、でも頭打たないように気をつけろよ」
「分かってる」

 衣はゆっくりと洞窟の中に足を踏み入れる。
 ごつごつとした石の感触。転ばない程度に地面は平坦になっていた。
 周囲を見渡す。薄暗い中、何かが置かれていることに気づく。
 慎重に近づき、手に取ってみると、どうやら本のようだった。
 さすがにこの暗さでは内容までは分からない。衣は一旦引き返すことにした。

「何かあったぞ」
「ん? あー、それか。まだあったんだな」

 須賀は本のことを、少しずつ思い出しながら口にした。

「実は、この基地なんだけど、俺以外の誰かも使ってたみたいで」
「侵入者か!」
「まあ、言っちゃえばそうなんだけどさ。でも、特にモノを壊されたりすることもなかったから、放置してたんだ。会うこともなかったしな」
「ふむ」
「それで、いつだったか基地に行ったら、何か本がいくつか置いてあってさ。それがその本だ」
「進入していた誰かが置いていったのか」
「だろーな。ま、別に本くらいいいんだけど、結局俺がこの基地に寄り付かなくなる頃までずーっと置いてあったから、きっと忘れていったんだろ」
「お前、中身は見たのか?」
「見ようと思ったんだけど、俺頭悪いからよくわかんなかった」

 本の中身は、高等教育レベルの文学書だった。
 漢字も多く、絵もないこの類の本は、子供なら数ページ見ただけでも見るのをやめてしまうだろう。
 パラパラとめくっていくと、最後のページに文字が書かれてあった。

「龍門渕……透華」
「嘘ぉ!?」
「ほら、見てみろ」
「マジだ……」
「つまり、ここに来ていたのは幼き日の透華だったということか」
「何それ、ちょっと怖いんだけど」
「考えてみれば、ここは透華の家が所有しているんだ。透華が遊びに来ていてもおかしくはない」
「山に来て、わざわざ本読むなんて変わりすぎだろ……」

 確かにそうだ。
 わざわざ開放感溢れる山に来ておきながら、わざわざ薄暗い洞窟に閉じこもって読書など意味の無いことだろう。

「帰ったら聞いてみよう」
「……え、マジで聞くのか」
「む? それは聞くだろう。気にならないのかお前は」
「なるっちゃなるけど、こんなこと言ったら師匠、何か変なことになりそうで」
「……変?」
「桃色思考と言うか、何と言うか」
「わけが分からん。とにかく、衣は疑問を抱えたまま過ごすのは嫌だ」

 衣はふと、須賀と透華の関係について気になった。
 師匠などと呼ぶと言うことは、普通ではない関係があるのだろう。

「……さて、そんな感じで、もう見る場所もないんだが」
「ふむ、あっけない終わりだったな。もっとスペクタクルな展開を期待していたのだが」
「寂れた秘密基地にそんなこと期待しないでくれよ」

 その時、衣のお腹がぐぅとなった。
 気づけば時刻は既に正午を回っている。
 かなり大きな音だったようで、目の前の須賀にはしっかりと聞かれてしまっていたようだ。

「何だ、腹減ってたのか」
「う、うるさい! 仕方がないだろう!!」
「飯は?」
「衣は手ぶらだ。何も持ってきていない」

 家に帰れば食事の用意はしてもらえるだろうが、まだあの閉鎖的な空間へは戻りたくない。
 そんな空気を察したのか、須賀は一言。

「よし、飯に行くか!」

 衣の手を引き、山を降りていく須賀。
 衣は戸惑ったが、その大きな手に触れていると、どこか懐かしい気持ちが湧きあがってきて、そのまま手を繋ぎ続けていた。

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