三日目。生まれ変わった部室を見て、昨日の一軒を知らない部員たちは目を輝かせていた。

「京ちゃん、一体どれだけ掃除頑張っちゃったの?」
「えっと……三十分くらい」
「すごっ! もう将来清掃業確定だね!」
「というか、それだけの技術があるのに今までやっていなかった方が問題です」

 須賀は美穂子に頼まれた通り、昨日のことは黙っている。
 おかげで美穂子には何も追求がない。しかし、須賀に嘘をつかせてしまったことは申し訳ないことだ。美穂子は後でちゃんと謝ろうと決心した。

「福路さん?」
「え?」

 唐突に竹井が声をかけてきた。

「ありがとね」
「な、何の話?」
「何って、この現状よ。掃除得意な人なんていなかったから、助かったわ」

 竹井には即バレてしまっていたようだ。
 考えても見れば、須賀が急に掃除に目覚めるということはおかしなことだ。
 竹井の言葉は咲と原村も聞いていて、賞賛から一転、それならそうといいなさいと怒られることとなった。

「もう、福路さんにそんなことさせちゃダメじゃない京ちゃん」
「本当です。出向で来ている人に掃除をさせるなんて、前代未聞です」
「ちょ、ちょっと待って!」

 須賀が攻められるのを見ていられる美穂子ではなかった。
 元はといえば、自分が蒔いた種なのだ。須賀を攻めるのは間違っている。

「掃除をしたいって言ったのは私なの。いつも風越でやっているから、習慣になってて、やらないと落ち着かなくて」
「そうだったんですか……でも、やっぱり掃除なんて」
「福路さん、掃除をしたいという献身的な気持ちはいいと思いますが、やはり他校の生徒に部室を掃除させるというのは問題があります。プライバシーもありますから、自重していただかないと」

 うっと思わず美穂子も息を呑んだ。
 何と言うか、一層原村からの風当たりが強くなったような気がした。
 やはり、おととい釘を刺されたにもかかわらず、無視して掃除していたのが癇に障ったのだろうか。

「おいおい、お前たちひどいなそんなこと言っちゃって」
 
 すると、先ほどまで攻められていた須賀が、今度は美穂子のフォローに回った。

「福路キャプテンは、部員交換制度で来てる。つまり、今は立派な清澄の部員なんだよ。それを、他校の生徒だからどうとか言って締め出すのはどうかと思うぞ」

 はっとするような言葉だった。
 美穂子が受けた辛い言葉を、須賀は分かっていて、ちゃんと言い返してくれた。
 思わず須賀の顔をじっと見てしまう美穂子。それに気づいたのか、須賀は小さく笑って返す。

「わ、私は……そんなつもりで言ったわけじゃありません」

 須賀の言葉に予想以上のダメージを受けたのか、原村はうつむき、視線を逸らしてしまう。
 そうした行動は美穂子の本意ではない。美穂子は別に、原村を攻めたかったわけじゃないのだから。

「うん、分かってる。私は気にしてないから、ね。大丈夫。だからこの話はもう終わり!」

 強引に話を断ち切る。
 これ以上は、自分だけの問題ではなく、須賀と原村の関係にまで飛び火しかねない。
 部員同士のいざこざなど、美穂子は見たくは無かった。

「はい、んじゃあ部活するわよ」

 そんな美穂子の思いが伝わったのか、竹井もまた話題を打ち切ることを優先した。
 さすがに部長の言葉とあっては、原村も何も言うことは無い。咲も小さく頭を下げ、雀卓へと向かっていく。
 須賀は納得のいかなさそうな顔をしていたが、それでも竹井が作った場を乱すようなことはしなかった。
 美穂子は心の中で何度も須賀に頭を下げていた。こんなことになってしまって、申し訳ないと。
 しかし、いつまでもそうして入られない。今日も竹井は雀卓につかない。ならば、美穂子が入るしかないのだ。
 正直、こういうことがあったのだから、一日くらい時間をおきたいものなのだが、仕方が無い。

「それじゃ、今日も張り切って行きましょう〜!」

 竹井一人がいつも通りであった。
 


 淀んだ空気の中、ぎくしゃくとした対局は続いていた。
 そんな時に限って、美穂子の手の進みは早い。現在トップに立っている。
 美穂子の中には、問題を起こしておきながら、再び目立つ行動をしていることへの考えと、先ほどのことと麻雀は関係ないのだから、ここで手を抜くほうが失礼に当たるという考えがせめぎあっていた。
 勝ちを譲るようなことはしたくないし、そんなことをされても原村たちは喜ばないだろう。しかし、だからといって勝ちすぎるのも気が引ける。

「(やっぱり、そろそろ引いたほうがいいのかしら……)」

 美穂子は右目をゆっくりと開く。
 美穂子の右目には特別な力が備わっている。場の状態を一目で見抜く能力だ。
 ヒンドゥーの破壊神、シヴァの額にあるとされる第三の目。美穂子は生まれながらにして、それに順ずる能力を持っていた。
 万能ではないにせよ、限りなくそれに近い力を持つとされる第三の目であったが、未だ美穂子はその能力全てを行使したことは無い。
 
「(宮永さんは当分先、原村さんと須賀くんも、私よりは遅い手)」

 得た情報を整理しつつ、美穂子は目を閉じる。
 この目がもたらす情報量は膨大で、長い時間能力を使うことは出来ないのが欠点だ。
 ひとまず、今現在張っているのが美穂子だけだということが分かり、再び悩むこととなったのは言うまでも無い。
 上がりに行くべきか、はたまたここは降りるべきか。
 美穂子の葛藤は、その日の対局が終わるまで続くこととなった。



 結局、美穂子はトップで上がってしまい、微妙な空気が流れた。
 須賀は褒めてくれていたし、咲もあまり気にした様子はなかったのだが、その日最下位となってしまった原村からは、負のオーラが見て取れた。
 勝ってしまってごめんなさいなどと言うつもりは無い美穂子だったが、原村を見ているともっとやりようがなかったのかと、自己嫌悪してしまう。

「そういや福路キャプテン」
「何? 須賀くん」
「いや、キャプテンの右目なんですけど、もしかして見えないのかなって思ってたんスけど、違ったんですね」
「ええ、ちょっと事情があって閉じているだけで、視力はあるわよ」

 目のことを聞かれるのは慣れている。
 病気じゃないし、ちゃんと見えるということを告げれば、大抵の人はそれで納得する。
 しかし、美穂子の目が開かれるのを見た人はそうもいかない。

「私、片目だけ色が違うの」

 オッドアイというらしい。
 もちろん目の色が違うからといって、ものの見方は変わらないのだが、それを見た他人からの見方は変わる。やはり珍しいものを見るような視線は、美穂子にとって心地いいものではない。
 
「おかしいでしょ。だって、普通じゃないもの」

 つい自嘲するように言ってしまう。
 小さいころからよくからかわれたし、今だって心の無い人はこの目のことで美穂子を馬鹿にしていることがある。
 普通でないものは、そうやって外へと追いやられていくのだ。
 美穂子はうつむいた。自分の顔を見られないために。
 
「おかしくなんかないですよ。青くって……宝石、そうアクアマリンだっけか。そういう感じがして、すごく綺麗じゃないですか」

 えっ、と美穂子は顔を上げた。
 この瞳を褒められたことは、今までに一度しかなかった。それが、再びやってきた。
 まるであの日に戻ったかのような気分だ。美穂子の心に、大きな波が打ち寄せる。ざぶん、ざぶんと。その旅に、押し上げられてくるものがあった。それは涙だ。

「ど、どうしたんスか!?」
「な、なんでもないの。その、嬉しくて……」

 須賀の言葉はうわべだけではない、心からの言葉だということが伝わってくる。それもきっとあの日とリンクしている。
 あの日のそっけない褒め言葉は、宝石のようと言われるほどに昇華され、今再び美穂子の下へと送られた。
 美穂子はちらりと竹井の方を見た。目が合うと、竹井はにっこりと微笑む。
 
「(ああ……ダメ。そんな風に微笑まれたら、私、また涙を止められなくなっちゃう)」

 ハンカチ、ハンカチと探すが、あいにくと鞄の中に入れてしまっていたようだ。
 すると、さっと竹井が自分のハンカチを美穂子に手渡す。

「ほら、泣いてちゃ綺麗な顔が台無しよ。よしよし」

 そういって、子供をあやすように竹井は美穂子の頭を撫でた。
 いつもは自分が後輩にしてあげる立場なのに、今日はまるで反対だ。
 次第に涙は収まってきた。ハンカチはしっとりと濡れてしまっている。

「ごめんなさい、洗って返すから」
「いいわよそのままで。それは須賀くんにあげて、それで須賀くんのハンカチを私がもらう。そうすれば須賀くん今夜は楽しめるでしょ」
「何、人を変態扱いしてるんですかっ!」

 またくだらないコントが始まり、それを見ていたらいつの間にか美穂子はいつも通りに笑えていた。
 ここまで織り込み済みだったのだろうか。まったく、彼女はどこまでも底が知れない。
 
「さて、とりあえず、一服してから帰りたいわね。須賀くん、お茶」
「はいはいはいっと!」

 言うが早く、須賀は全員分の紅茶を注ぎに行く。先ほどまでのコントが嘘のようだ。

「私も手伝うわ」

 正直、紅茶を淹れることに関しては、須賀に遠く及ばないが、それでも何かできることがあればと美穂子は考えた。
 
「じゃあ、お茶菓子とか出すの手伝ってください」
「分かったわ」

 てきぱきと動く須賀に負けじと、美穂子も持ち前の要領のよさを発揮し、手早く人数分の菓子をセットする。
 ふと、後ろから視線を感じて振り向く。原村だった。原村は何か言いたげな顔で、美穂子を見ていた。
 しかし、今何か聞くと、また最初のころに戻ってしまいそうで、美穂子は何も聞かず、そのまま準備を続けることにした。

「はい、お待たせ」

 須賀の紅茶の出来上がりに合わせ、美穂子の準備したクッキーなどの詰め合わせもセットする。
 全員分行き渡ったのを確認し、須賀と美穂子も椅子にこしかける。
 雀卓をはさんで須賀と向かい合うと、まるで喫茶店で二人きりになっているようだ。
 美穂子には男子とそういったことをした経験などは無い。ドラマや映画、恋愛小説などの描写くらいしか、美穂子にとってのボーイフレンドという概念は存在しない。
 好きということを覚えるよりも前に、美穂子が覚えたのは自分の人とは違う所を隠すところだった。
 そのため、気になる男子がいようとも、積極的にはなしかけることははばかられた。話しかけて嫌われたくは無かったからだ。
 だから、こうして須賀と向かい合い、会話をしていると不思議な気分になる。自分には縁遠いものだと思っていた男女交際が、身近に感じられ、今まで自分が悩んできたことが全部飛んでいってしまったような。
 
「私、紅茶は須賀くんに敵わないけど、コーヒーだったらちょっと分かるの」
「へえ〜コーヒーかぁ……。そっちもいいですね」
「もしよかったら、今度教えましょうか? じ、時間がかかっちゃうかもしれないけど」
「お〜望む所っスよ!」
「の、望んじゃうんだ」

 意味が分かっていっているのだろうか。
 時間がかかるということは、それだけの時間二人で過ごすということになるのだが。
 分かっていなさそうな辺りも、彼らしいと言えば彼らしいが。
 と、そんな話をしていると、横から原村が割って入ってきた。

「紅茶だのコーヒーだのの前に、須賀くんはもっと麻雀のことを勉強するべきです」
「の、和」
「大体、麻雀部は麻雀をする部なんです。そんな休憩の技術なんかより、もっとやらなくちゃいけないことが山ほどあります」

 もっともだと美穂子は思った。しかし同時に、それは寂しいことだとも思う。
 娯楽の心をなくしては、どんなこともつまらなくなってしまうだろう。
 けれど、そうしたことを言える程、美穂子は我を通すタイプではない。原村がそう思うのなら、それでいいのだと強引に思い込むことにする。それが美穂子のいつもであった。

「多少部室が汚れてたって部活はできますし、紅茶やコーヒーがなくたって同じです。ですから、あまりそういうことに力を入れすぎないでください」

 言うだけ言って、原村は元いた場所へと戻っていった。
 美穂子はすっかりと芯が冷えてしまっているのを感じる。せっかく普通に笑えるようになったのに。
 しかも、彼女の言葉は美穂子に対してのみ向けられているようだった。それがまた、美穂子の心を冷たくした。
 いつの間にか冷えてしまった紅茶を一気に飲む。楽しいティータイムも、それを楽しむ心がなければ空しいだけだ。

「は〜いそろそろ帰り支度してちょうだい。今日の掃除当番は……」
「私です」

 原村が手を上げた。
 何というか、よりにもよってという感じだった。
 原村はさっき美穂子へ文句を言ったことから分かるように、若干の怒りを抱えている。掃除はそうした感情のゆらぎを受ける。
 美穂子は先ほどの原村の言葉よりも、明日の部室の清掃状態の方が気になっていた。
 しかし、だからといって手伝いなど申し出れるはずもない。須賀がああ言ってくれたからといって、今の原村と二人きりになることは美穂子も避けたかったし、何より原村は美穂子に掃除などさせないだろう。
 その日は素直に帰宅することとなった。

 

 

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