四日目。美穂子は部室の状態が気になって、早めに部室を訪れてみた。
案の定、隅のほうに回収し切れていないホコリの塊があったり、ゴミ箱の裏や机の下など、手をつけていなさそうな場所もあった。
前日に美穂子と須賀が綺麗にしたおかげで、それらの汚れは目立たなかったが、美穂子にとっては見て見ぬふりの出来ないものだ。
「(さっと掃除しちゃえば大丈夫かしら……)」
このまま落ち着かない気持ちで部活をしたくない。その思いから、美穂子は箒を手に取った。
なにも、床に染み付いた汚れを取るわけじゃない。簡単な掃き掃除だ。すぐに終わる。
そう思った矢先の出来事であった。
ガチャリと扉が開き、誰かが部室へと入ってきた。
「……何してるんですか」
まずい、美穂子は思わず固まった。
振り返ると、そこにいたのは原村だった。
表情からは苛つきが色濃く見え、口は真一文字、手は鞄の持ち手が潰れるんじゃないかと思う程、堅く握られている。
「あ、あの……ごめんなさい」
思わず謝ってしまった。悪いことをしたわけでもないのに。
けれど、美穂子にはそうするしかなかった。他人の怒りに直面した時、美穂子に出来るのは、ただそれ以上の怒りを抱えさせないようにするだけだ。
だが、原村にとってその行為は、さらなる逆鱗に触れるものだったらしい。
「ごめんなさい? 謝る必要があることをしていたんですか?」
「い、いえ……そういうわけじゃ……」
「じゃあ何をしていたんですか!」
怒鳴り声というほど大きな声ではなかったが、普段から声をあまり張り上げない原村が、強い口調で声を荒げたことが、美穂子にとっては恐怖だった。
「そ、掃除を」
「……っ! 私がやった掃除が気に入らなかったんですか」
原村の怒りの形相は、さらに深いものとなっていく。
歯を食いしばっているのか、顎の辺りの筋肉が痙攣している。
「そ、そういうわけじゃなくって、その……汚れていたから……」
言った瞬間まずいと思った。
それはつまり、原村の掃除の仕方が荒いということを言っているのと同じだ。
気づいた瞬間、体中の血液が一気に冷え、まるで冷水のようになっていくのを感じた。
「……あなたは……そうやって他人のことを見下して!!」
「ひっ……」
動けなかった。蛇に睨まれた蛙。足がすくみ、声も出ない。
「何でも出来るからって、どこからでもしゃしゃり出てきてっ! 迷惑なのよ!! 偽善者!!」
「ごめんなさい!」
「そうやって謝ればいいと……そういうのが癇に障るって、どうして分からないの!?」
「ごめんなさい……」
「馬鹿にしてるのっ!? やめなさいって言ってるのに!!」
謝るなと言われても、美穂子には他にどうしようもなかった。
ひたすらに頭を下げる、それ以外は何も出来ない。
「……ごめんなさい」
「……っ! 出て行って! もう来ないで!!」
強い拒絶の言葉に、美穂子の足はようやっとその機能を回復させた。
駆け出す。振り向かずに一直線に。あふれ出る涙をぬぐうこともせずに。
「うおっ! あれ、福路キャプテン?」
須賀だった。
どうやらちょうど今来たところのようだ。
しかし、美穂子は何も言えなかった。何も言えず、そのまま走ることしか出来なかった。
「お、おーい!」
須賀の呼びかけを無視し、美穂子はそのまま、自宅までの道を走っていった。
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泣きながら走り去って行った美穂子。須賀は一体何があったのかを確かめるために、部室へ足を踏み入れた。
中には原村が一人でいた。須賀が来たことに気づいているはずなのに、振り返ろうともしない。
「おい和! 今、福路キャプテンが泣きながら走って行っちまったぞ!」
「……そうですか」
そう呟くように言った原村の声には、驚くほど覇気が無かった。
何かあったということを、須賀は感じざるを得なかった。
「どうしたんだよ、一体」
「言いたくありません」
原村は頑なに口をつぐんだ。
だからといって、諦めるわけにはいかない。
見ると、何故か掃除用具入れが開いていて、箒が壁に立てかけてある。
原村が朝に掃除をする理由もないし、恐らくは美穂子がやったのだろう。
「……マジかよ」
昨日の掃除当番は原村だ。
恐らく、美穂子は今日部室に入り、ちょっとした汚れに気づいてしまったんだろう。
そこでみんなが来る前に掃除をしてしまおうとした所、原村がやってくる……。
「なあ和。その……」
「すいません須賀くん。今日、私帰ります」
「え?」
「お疲れ様です」
そう言うと、原村はさっさと帰ってしまった。
須賀はぽかんと見送ることしか出来ず、結局本当のところを聞けずじまいだった。
「福路キャプテン……大丈夫かな」
追いかけてやりたかったが、一体どこへ行ったのか分からない。
もし、自宅へ帰ったのだとすればお手上げだ。風越の場所は分かっても、彼女の自宅までは分からない。
どうすべきか考えてみるが、いい考えは浮かばなかった。
「あら、須賀くん一人?」
「部長……」
開け放たれた扉から、竹井がきょとんとした表情で中を見回していた。
「その、和と福路キャプテンに何かあったみたいで」
「何か?」
「詳しいことは全然です」
「ふ〜ん……」
竹井もまた、開け放たれた掃除用具入れと箒を見ている。
もしかすると、須賀と同じ結論にたどり着いているのかもしれないが、どちらにしても、確かめる術は無い。
「和は帰っちゃったの?」
「はい、さっき」
「部活になんないわねぇ」
正直、須賀にとって今は部活よりも美穂子のことが気がかりだった。
泣きながら走り去っていった彼女の弱弱しいこと。思い返すだけで不安になる。
「ま、これもいい機会だし、三人で色々やってみましょ」
「はい……」
「もーしょげないの。明日になっても二人が来なかったら、その時はちゃんと考えましょ」
どの道今できることは何も無い。
竹井の言うとおり、ひとまずは明日を待って考えたほうがいいだろう。
……その日は三人きりの寂しい部活となってしまった。