五日目。原村は部活に顔を出したものの、美穂子は姿を現さなかった。
 顔を出したといっても、原村もどこか元気がなく、未だに昨日の一件を引きずっていることは明白だった。

「部長」
「そうね、一日経って来なかったわけだしね」

 まずは原村に詳しい事情を聞かなくてはならない。
 近寄りがたい雰囲気をまとう原村に、須賀は意を決して話しかける。

「和、昨日何があったのか、教えてくれないか?」
「……嫌です」
「和!」
「だって! だって……あんまりにも惨めで……」

 これ以上問い詰めると、今度は原村のほうも部活に出なくなってしまうかもしれない。
 須賀は原村から事情を聞くのを諦めることにした。
 
「素直に答えてくれるとは思ってなかったけど、こりゃ面倒ね」
「やっぱり、直接福路キャプテンに話を聞きに言ったほうがいいですね」
「そうねぇ。でも、彼女の家知らないでしょ」
「とりあえず、風越に行って聞いてみますよ」

 風越の部員ならば、誰か福路の家を知っているものもいるかもしれない。
 普通に聞いて教えてくれるかどうかは分からないが、今はそれにかけるしかなかった。

「よし、じゃあ須賀くんは行ってらっしゃい。残った人は帰ってよし!」

 しかしそう言ったにも関わらず、竹井は椅子にどっかりと腰を下ろし、ハードカバーの小説を読み始める。

「部長は帰らないんですか?」
「馬鹿ね。彼女のことを部員だっていったのはあなたでしょ。だったら、部長である私は、今日合ったことの報告を受ける義務があるわ」
「部長……」
「ほら、ぐずぐずしてるとあっちの部活が終わっちゃうわよ」
「はい! じゃあ、行って来ます!」

 必ず美穂子を連れて帰る。須賀の胸には強い意志が芽生えていた。



 風越学園。麻雀部の強さが際立つ、名門校として名高い。
 須賀はその由緒正しき学園に、そのまま入り込んでもいいのかと悩んだ。
 何せ、自分は部外者であるのだから、つまみだされてもおかしくない。

「いや待てよ。部員交換制度で、染谷先輩が行ってるんだ。俺が何かの用事で来たって言えば、おかしくはないか」

 免罪符を得た須賀は、意を決して風越の校門を通り抜ける。
 目指す場所は麻雀部だ。
 てっきり迷うかとも思ったが、部室は予想以上に分かりやすかった。

「といっても、ここからが問題なんだよな」

 誰に聞けばいいのやら。
 適当な人に聞いても、その人が美穂子の家を知っているとも限らない。しらみつぶしに聞いてもいいが、怪しまれるかもしれない。
 そう考える須賀の前に、一人の女生徒が通りかかった。

「(あいつ……確か、全国の決勝で咲と戦った、池田……だったか?)」

 須賀は、池田が美穂子と仲良さげにしていたことを思い出す。
 となれば、きっと美穂子の家の場所を知っていてもおかしくはないだろう。
 
「ちょ〜っとすいません」
「にゃ?」

 当たって砕けろ。須賀はなんとかなるさの精神で、池田に声をかけた。

「清澄の須賀京太郎っていうものなんスけど」
「おお〜清澄! わざわざこっちに来るなんて、何かあった?」

 気さくに話しかけてくる池田を見て、須賀はほっとした。いきなり警戒されたらどうしようかと思っていたところだ。

「実は、ちょっと福路キャプテンに渡したいものがあって、自宅を伺いたいんスけど」
「……自宅?」

 池田が訝しげな表情をする。
 さすがにいきなり自宅はまずかっただろうか。
 しかし、言ってしまった以上、ここで引くわけにも行かない。

「明日、清澄に来た時にでも渡せばいいじゃん」
「それは……ちょっと」
「じゃあアタシに渡してくれれば、学校で渡すよ」
「なるべく本人に渡したくて」

 池田の表情が困惑へと変わる。
 恐らくは、そこまでして渡したいものとはなんだろうと考えているのだろう。
 もちろん渡したいものなんてありはしない。口からでまかせだ。

「つまり、たくさん人がいる場所では渡せず、誰かの仲介もさせたくないものを渡そうとしてるわけだ」
「え〜っと……そうです」

 何て怪しいんだ。須賀は自分で言ったことなのにも関わらず、思わずつっこんでしまった。
 
「むむむ……」

 池田もそうとう考えているようで、猫耳のように飛び出た髪の毛がピクピクと動いている。
 
「まさか!」

 突然、池田が飛び跳ねた。
 須賀は驚いて後ずさったが、池田はその差をすぐに詰めてくる。

「まさか……それは『ラブレター』か!?」
「ええ!?」

 ラブレター。確かに大勢の前では渡しにくいし、人に頼むのもはばかられる。
 しかし、何て桃色解釈だ。須賀は目の前の池田を思わずまじまじと眺めてしまった。 
 それをどう解釈したのか、池田はふんふんと満足げに頷いている。

「他校の生徒にもかかわらず、キャプテンにラブレターなんておこがましい!」

 ここまできたら須賀も引けない。ラブレターを渡しに来た男を演じるしかない。

「愛に学校の違いなんて……関係ない!」
「む! なら、君はキャプテンの何を知っている?」
「……コーヒーを淹れるのがうまい」
「な、なんと! キャプテンがコーヒーを淹れるのは、特別な人にだけだっていうのに!! それを知ってるとは、お主、できる……」

 何だか良く分からないが、須賀は一目置かれたようだ。
 この機を逃す須賀ではない。

「お願いだ! キャプテンにこの思いを伝えたいんだ!」
「……ええい分かった! キャプテンの幸せのため、涙を飲んで君を見送ろう!」
「池田さん!」
「須賀京太郎!」

 がっしと握手をする二人。
 ほんの数分の出来事だというのに、二人はすっかりと打ち解けてしまっていた。

「キャプテンの住所はこれ!」

 手渡された紙を見る須賀。すかさず携帯の地図検索にかけ、現在地からの道筋を描かせる。

「サンキューです!」
「キャプテン泣かすんじゃないぞ!」

 ラブレターを渡すとして、美穂子がOKするかどうかも分からないというのに、池田はまるでもう告白が成功したかのような言いぶりであった。
 もしかすると、コーヒー云々の話が原因だろうか。特別な間柄の人にだけ飲ませてくれるという。

「(まだ、飲んじゃいないからな……福路キャプテンのコーヒー!)」

 絶対に飲ませてもらう。意気込みも新たに、須賀は走り出した。



 その頃美穂子は、学校からの帰路の途中にある川原へと立ち寄っていた。
 学校が終わり、いつもなら部活をしている時間。
 美穂子は川に向かって石を投げ込んだ。ひとつ、ふたつ、みっつ跳ねて、石はぼちゃんと川の中へと沈んでいった。
 美穂子は手持ち無沙汰だった。
 清澄へ出向している身なので、今更風越の麻雀部に戻るわけには行かない。しかし、清澄へは戻りたくない。家に帰ったら、きっと家族が早い帰宅に何かがあったのかと疑いの眼差しを向けるだろう。
 まさに八方ふさがり。美穂子はこうして、クビを切られたサラリーマンのように、ぼーっと時間を潰すしかなかった。

「私、こんなのばっかりだなぁ」

 よかれと思ってやったことが、他人を怒らせる。
 もっと小さい頃は、何故怒ったのかが理解できなかった。自分に出来ることは、他人にも出来ると思い込んでいたからだ。
 けれど、現実は違った。自分に出来る当たり前のことは、他人にとっては難しいことだった。
 それから、美穂子は常に一歩引くような生き方をしてきた。人に迷惑をかけないよう、怒らせないように。
 
「でも、やっぱり根が変わってないのかな。原村さんのこと、怒らせちゃった」

 再び石を拾って投げる。心が乱れているせいか、二回跳ねただけだった。
 結局、美穂子はどうやっても他人のやっかみをかってしまったし、うざがられた。
 善意を振りまくことが必ずしも人を幸せにしない。そのことは美穂子の心をどんどんとマイナス方向に加速させた。

「はぁ……どうしたらいいんだろ」

 川原で一人呟いた美穂子の背後から、誰かの走る音がした。
 何かと思って振り返る。

「え……?」

 信じられなかった。彼がいるはずはない。美穂子は何度もまばたきをして、しっかりと両目をあけてその男を見た。
 須賀京太郎。清澄で出会った男子部員。
 おちゃらけているようで、麻雀への取り組み方は真面目。失敗もするけれど、持ち前の明るさで切り抜けてしまう。
 何故か紅茶を淹れるのが上手くて、そのギャップが面白い。
 美穂子の中から須賀に関する情報があふれ出す。その瞬間、美穂子の左目には涙がこみ上げる。
 何故だかは分からなかった。ただ、須賀がここにいるというその事が、美穂子の心に響いたのだ。

「須賀くん!」

 声を張り上げた。
 きっと彼は、自分のことを心配してきてくれたのだ。美穂子はそう感じていた。
 須賀が振り向く。目が合う。すると須賀はにっこりと微笑んで、こちらへと駆け寄ってくる。

「福路キャプテン!」
「須賀くん、どうして……」
「決まってるじゃないですか。心配だったんですよ!」

 ああ、やっぱり。
 そうだろうと思って、心の準備をしていたはずなのに。美穂子は再びこみ上げてきた涙を抑えることが出来なかった。

「キャプテン、泣いて……」
「ち、違うの。悲しいんじゃないの、須賀くんが来てくれて、嬉しいの」

 ハンカチを使って拭いても拭いても、涙は次から次へと溢れてきた。

「あれ、左目だけ……?」
「あはは。私、何か右目で泣けないの」

 生まれつき色が違う右目がもたらしたものは、特別な能力だけではなかった。
 美穂子の右目は、どういうわけか涙が出なかった。
 最初からそうだったのか、はたまたいつからかそうなっていたのかは覚えていないが、小学校くらいからずっと、右目は瞳の保湿以上の水分を溢れさせたことは無い。
 
「本当に、宝石なんですね、その目」
「え?」
「だって、泣けないっていうのは、その瞳の美しさを、涙で曇らせないようにしてるってことでしょう?」

 思わず美穂子は吹きだした。
 なんとキザな台詞だ。こんなことを素面で言えるだなんて、須賀はきっと役者かポエマーだ。
 
「ご、ごめんなさい。笑うつもりじゃなかったの。ただ、あまりにも素敵な言葉だったから」
「いや……実は自分で言っててかなり恥ずかしかったり」

 今度はお互いに笑いあった。
 笑ったおかげで、美穂子の涙もすっかりと引いていた。
 もしこれを狙ってやったのだとしたら、やはり役者かポエマーだ。

「……あはは。それで、その……原村さん、どうしてる?」

 美穂子はずっと気になっていた。
 自分にあんなことを言った原村は、一体どうしているのか。
 心根の悪い人ならば、どんなことを言ってもけろりとしているだろう。しかし、きっと原村はそうではないと、美穂子は感じていた。

「えっと、福路キャプテンがいなくなった日は、和のすぐ帰りました。次の日は来たには来たんですけど、元気なくて」
「そうなの……」

 やっぱりそうだった。美穂子は安心した。
 人が元気をなくしていると聞いて、安心するというのも変な話だが、少なくとも原村は美穂子にした行いで、何か感じるものがあったということだ。

「あの、何があったのか聞いてもいいですか?」
「ええ……」

 美穂子はあの日のことを須賀に話した。
 須賀は大まかな所を予想していたのか、やっぱりかと言い、しきりに頷いていた。

「私が悪いのよ、原村さんを否定するようなことをしてしまったから」
「いや、キャプテンは悪くないですよ! だって、掃除が荒くて汚れていたのは、和の責任じゃないですか」
「でも! でも、そうする原因を作ってしまったのは、もとはといえば私のせい。それに、汚れていたのだって、普通の人は気にしないような所だったし……」

 須賀は何かを考え込むように、地面に腰を下ろした。
 ここの川原の地面は、膝小僧くらいまで伸びたやわらかい草があるおかげで、座っていてもまるで痛くない。
 美穂子も須賀の隣に腰を下ろした。さりげなく距離をつめて。

「和も、悪気があったわけじゃないし、キャプテンだってそうだ。じゃあ、どうしたらいいんだろ」
「私も分からない……。こういうこと、いつまで経っても慣れなくて」

 美穂子はぽつり、ぽつりと自分の話をした。
 昔から人を怒らせてしまうこと、認識のズレ、善意の押し付け。
 須賀は相槌だけを打って、静かに耳を傾けていた。どこか、美穂子の感じた苦しみを、須賀も感じていたのかもしれない。

「私、ダメね。いつまで経っても他人の気持ちを汲んであげられない」
「そんなことないですよ。少なくとも俺は、キャプテンに怒ったりとかしようだなんて思いません」
「ありがとう、でも、きっといつかは私のこと嫌いになっちゃう。きっと……」
「そんなこと言わないでくださいっ!」
「……っ。ごめんなさい」

 ふいに大きな声を出した須賀に、思わず美穂子は反射的に謝っていた。
 いつの間にか癖になっている。きっと、これも小さな頃から受け継がれてきたものだろう。

「……そうか、それか」

 やおら須賀が立ち上がった。
 その表情からは、強い意志の力が感じられた。
 
「どっちかが悪いだなんてことはないんですよ。本当は敵なんかいない。和も福路キャプテンも、どっちも正しい」
「そ、それじゃ解決にならないわ」
「なるんですよ。今回、何で和が怒ったかって、それは掃除云々のことだけじゃない。キャプテンが謝ったからなんだ」
「……私が、謝ったから?」

 そう言えば最初に謝った時、原村に言われた言葉があった。謝る必要があることをしていたんですか? と。
 
「汚れていたから掃除する、自分の掃除を気に食わないといってやり直される。相対する二つの感情だけど、どっちも正しい。正しいなら、謝っちゃいけないんだ」
「謝っちゃいけない……。そうなの?」

 今まで謝ることは美穂子の処世術だった。
 ひとまず頭を下げれば、相手の気を納めることが出来る。
 自分がよかれと思ってやったことでも同じことだ。怒っている相手には、ただひたすらに謝ってきた。

「それじゃダメなんですよ」

 須賀は続ける。

「自分がいいと思った事は、どんな時でも貫かなくちゃいけない。じゃなきゃ一生矛盾を抱えてちまう。押し付けの善意も、親切も、大きなお世話も全部、貫かなかったらただの偽善だ」
「偽善……。そっか、今まで私は、何でも中途半端だった。だから、そういう偽善者だって、思われていたのね」

 原村にも言われた。
 ただの悪口だと思って聞き流していたが、それは的を捉えた表現だったのだ。
 美穂子の心は美穂子にしか見えにない。他者がそれをはかるには、行動を見るしかない。
 しかし自分がやってきたことはどうだろう。親切を押し売ろうとし、迷惑だと言われると謝って逃げた。何だそれは。中途半端にも程がある。
 美穂子は両の目を開け、唇をぎゅっと噛み締めた。
 
「私、今まで人に謝ってきたけど、本当の意味で自分が悪いだなんて思っていなかった。どうしてか私の気持ちを受け取ってくれない、周りの人が悪いんだって、心の底では思っていた」

 黒いものを吐き出していく。
 自分の中にあった闇の部分が、言葉と共に外へと排出されていく。

「自分が出来ること、みんなが出来ないのはおかしいって思ってた。みんな嘘をついているんだと思ってた。勉強もスポーツも、できるのが当たり前だったから」

 過去の自分が、今の今まで抱えてきた思い。
 楽しいことばかりではない。暗い、井戸の底のような暗黒があったのだ。

「自分が悪くなくても、謝らなくちゃいけなかった。そうしないと周りから浮いてしまったから。溶け込めなかったから。自分の意思を殺して、細々と生きてきた」

 拳を痛いくらいに握り締める。
 かつて、これ程までに熱くたぎったことはあっただろうか。
 きっと、言葉を理解する前、何も知らず、理解すらしていなかった頃まで遡らなければいけないだろう。

「今日からは! 今日からは……私は私。自信とプライドを持って、他人に求められてもいない親切を振りまく。迷惑だって言われてもいい、それが正しいと信じる私こそが、本当の私だから!」

 美穂子は生まれ変わった気がした。いや、きっと美穂子は未だ生まれていなかったのだ。
 今日、この瞬間を持って、本当の福路美穂子は生を受けた。
 煌々と輝く青き右目の祝福を受け、自分の本質と向き合った美穂子。
 その言葉を、何も言わず、ただ受け止めた須賀。

「お誕生日、おめでとうございます」
「うん、第二の誕生日……私と、あなただけが知っている、特別な日」

 微笑みあう二人を、沈み行く夕日が見守っている。
 真っ赤に染まった光を受けて、二人の全身にも赤みが指す。
 果たして、それは光のいたずらか、はたまた二人の思いの結果なのか。



「うぅ……キャプテン、そんなことがあっただなんて……」

 その光景を隠れて眺めていた女生徒が一人。
 池田華奈。風越学園の二年生だ。
 須賀を送り出したのはいいが、やはり気になって追いかけてきていたのだ。
 しかし、まさかこんな状況になるとは、彼女も夢にも思わなかった。

「でも、あいついいヤツだなぁ……うんうん。キャプテン、幸せになってくださいね」

 そう言うと池田は学園へと戻っていく。
 途中で部活を抜けたことを、コーチからどやされるかもしれないが、こんないい光景を見れるなんて、一生に一度あるかないかだろう。
 池田はデジタルカメラのプレビュー機能で、写真を閲覧する。
 そこには、夕日をバックに見つめあう須賀と美穂子の姿が映し出されていた。

「お誕生日、おめでとうございます。キャプテン!」

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