六日目。前日の夜に須賀からの報告を受けた竹井は、誰よりも早く部室を訪れ、来るべき人物を待ち構えていた。
 自分で淹れた紅茶を一口すするが、あまりおいしくはない。やはり須賀の淹れたものでなければ駄目のようだ。
 顔をしかめながらもその紅茶を消化していると、カチャリと、ゆっくりとやさしくドアが開かれ、美穂子が姿を現した。

「待ってたわ」
「二日間、ご心配をおかけしました」

 ぺこりと頭を下げる美穂子。
 竹井は美穂子に座るよう促した。

「どう? うちの須賀くんは上手くやってくれた?」
「さぁ……どうかしら」
「あら、随分とふくみをもたせるじゃないの」
「ふふ……。だって、昨日の事を喋ってしまったら、それは二人きりの秘密ではなくなってしまうから」
「あらあらまぁまぁ」

 竹井はお手上げのポーズを取った。
 まるで恋人ののろけを聞いているような気分でいたたまれない。

「何だか分からないけど、色々と吹っ切ったみたいね」
「ええ、おかげさまで」
「なら、少しは私を楽しませてくれるのかしらね?」

 竹井は親指で雀卓を指す。

「この前までのあなただったら、勝負するまでもなかったんだけど」
「言ってくれますね」

 牽制のような言葉を交わしつつも、二人の間には笑みが耐えなかった。
 
「さてと、そろそろ意中の相手がいらっしゃるわよ」
「どっちですか?」
「胸が出てるほうよ」
「ふふっ」
「平気なの?」
「ええ、心配しなくても大丈夫よ」

 美穂子の言葉が終わると同時に、再び部室の扉が開かれた。

「……福路さん」
「原村さん」

 美穂子はにっこりと微笑んだ。その様子に原村は面食らったようだ。目を開き、驚きに満ちている。
 
「私、あなたに言わなくちゃいけないことがあるの」

 静かに和の方へと歩み寄る美穂子。
 原村はドアの位置から一歩も動けず、じっと美穂子の方を見つめている。

「この間、私が掃除していたこと謝っちゃったでしょう? あれを撤回します」
「……は?」
「私は正しいことをしたわ。汚れていた部室を綺麗にすることは、精神衛生上とてもいいことだから。だから、私は謝りません」
「な、何の真似です」
「別に。ただ、私、今までの自分とは決別したんです。だから、これからも原村さんが掃除をサボってたら私が掃除しますし、お茶の用意もします。親切、いくらだって押し売ります。でも、私は謝りません」
「な、何なの……?」

 原村は頭を抱えて座り込んでしまった。
 それを見て、美穂子は勝ち誇ったように微笑む。

「まだ言ってませんでしたよね。私、生まれ変わったんです」



 美穂子と原村のいさかいは終わった。
 美穂子の変化に原村は戸惑いながらも「それなら好きにしてください」と、返した。互いに謝らないという姿勢が、巡り巡っていつも通りの形を取り戻したのだ。
 それからの二人。原村は、やはり容赦の無い言葉を美穂子に投げかけるものの、美穂子はそれを笑って受け流せる余裕を見せる。はたから見ると、なんとも不気味な図であったが、二人はその関係を楽しんでいた。
 そして、最終日。



「例によって例のごとく、送別会を開きます!」

 竹井の一言から、美穂子の送別会が開催された。
 自分の送別会だというのに、美穂子は準備から積極的に参加し、自ら飾り付けや料理まで手がける活躍っぷりだった。
 今現在、テーブルに並べられている料理の殆どが、美穂子お手製のものとなっている。

「こりゃ一家に一人欲しいわね」

 竹井もその味を絶賛した。
 まさに家庭の味といったその味付けは、部員の舌を一瞬で虜にしたようだ。

「ちょっと作りすぎちゃったかな」
「大丈夫っスよ! こんなにおいしい料理なら、いくらだって食えます!」

 食べはじめから全力で飛ばす須賀。その皿に盛られていく料理の山々は、作った本人をも驚かせる。

「す、須賀くん。張り切りすぎないでね」

 須賀の隣には原村がいる。原村は先ほどから何も言わないが、彼女にしては速いペースで料理を消化していた。
 その表情の緩み方といい、美穂子の料理を気に入っているのは明白だった。

「やっぱり料理が出来る女って理想よね。ねぇ須賀くん」
「ふぁい? ん……そうですね。こんなに美味い料理作れるなら」
「だってさ」
「も、もう! からかわないで!」

 こういう話の振られ方は慣れていない。今まで男の影形すら見えなかった美穂子にとっては、初めての連続で、気持ちがてんやわんやだった。

「いくら料理が美味くても、性格が悪いとおしまいですよね」

 原村が毒を撒く。その目はしっかりと美穂子へ向けられている。
 こんなことでひるむ美穂子ではない。しっかりとその目を見返し。

「あら、少なくとも原村さんよりは、ずっと心は綺麗よ、私」

 言い返す。
 売り言葉に買い言葉なのだが、原村も美穂子も屈託の無い笑みを見せている。敵対心はまるでなかった。

「……しかしまぁ、変わるものね」
「色々あったんスよ」
「いいわね須賀くんばっかりそういう面白いことがあって。私なんて部室でただ待ってただけよ」
「んなこと言われましても……」
「あ、そのトマトちょうだい」
「ああ、どうぞどうぞ」
「じゃなくって、ほら、あーんって」

 コントを始めた竹井の後ろに、美穂子はすっと立つ。

「須賀くん? あーんって、しちゃうの? 竹井さんに」
「え……それくらい別に」
「しちゃうんだ……」

 美穂子は須賀の目をじっと見る。
 さびしそうに、構って欲しそうに。

「ずるいなぁ……」
「ああもう! 分かりましたよ、福路キャプテンにもしますから!」
「あら! もう、須賀くんってば優しいわ」
「……やっぱり性格悪いじゃないですか」



 楽しい送別会は終わり、美穂子の監修による掃除も無事終了した。
 たった一週間だったが、この清澄の部室には美穂子も愛着が湧いていた。
 
「また、来たいですね」
「いつでも来ればいいじゃない。ま、風越の部員を放っておくことになるけど」
「そ、それは……さすがにかわいそう」

 やはりかわいいのは自分の後輩だ。
 在学している間は、せめて彼女たちに尽くしてあげたい。

「福路キャプテン!」
「須賀くん」
「今度、コーヒーのおいしい淹れ方、ちゃんと教えてくださいよ」
「あはは、覚えてくれてたんだ」

 美穂子にとって本格的なコーヒーを淹れる相手は、特別な相手ということになる。
 何故ならコーヒーメーカーがあるのは自宅だ。となれば、相手を自宅に招待しなければならない。
 果たして、須賀はそういったことに気づいているのかどうか。

「いいけど、その代わりに須賀くんは私においしい紅茶の淹れ方を教えること!」
「おお、いいっスねそういうの。まあ、俺はこの教本見たのと、後は実践あるのみなんで、細かいところまで教えられるかどうか分からないですけど」

 そう言って須賀が差し出したのは、紅茶の淹れ方の入門書だった。
 手に取り、パラパラとめくってみると、初心者にも分かりやすいように、詳細な図付きで解説が載っていた。

「それ、師匠からもらったんですよ」
「へぇ……」

 ふと、ページをめくる手が止まった。
 この本の所有者だろうか、ペンで色々と注釈が書き加えられている。

「師匠の字っスね」
「書き込みながら教えてくれたんだ」

 しかし、この『ですわよ』とか『ますわ』なんて口調、どこかで聞いたことがある気がする。
 そのまま最後のページまで読み進めていく。
 驚愕の事実がそこにはあった。

「りゅ、龍門渕透華!?」

 龍門渕透華と言えば、この間の決勝戦で戦った龍門渕高校の選手だ。
 そういえば、清澄が風越の前に部員交換をしたのは、龍門渕だった。

「この人が須賀くんの師匠なの?」
「そっスよ」

 あっけらかんという須賀。何ということだ。あの高飛車そうな彼女が、どうしてまた須賀の師匠だなんてことになっているのだ。
 
「(これは……何か、桃色の予感が)」

 女の勘というヤツだった。
 美穂子は自分の中から嫉妬の心が湧き上がって来るのを肌で感じた。

「須賀くん!」
「は、はい?」

 こうしてはいられない。
 敵はこちらよりも一歩、いや、十歩は先に出ている。
 
「今からうちに来て!」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!」
「コーヒー! 教えるから、ね?」
「そ、そりゃ構わないですけど」
「なら、善は急げよ! ほら、ダッシュダッシュ」

 一刻も早く、須賀と彼女の位置へと追いつかなくては。
 美穂子は頭の中でこれからのことを考え出す。
 閉じられた右目も解放し、完全に覚醒した状態だ。
 負けたくない、絶対に。
 美穂子は走りながら笑っていた。こんなことを考えるようになるだなんて、本当に今までだったら考えられなかったことだ。
 大丈夫。美穂子は自分自身に声をかける。今の自分怖いものなんて殆どない。あるとすれば、今繋いでいるこの手が離れてしまうことだけだ。

「須賀くん。手、離さないでね」
「って、走りながら繋ぐのは難しいですって……まあ、努力します!」

 駆け抜ける先を見つめる、汚れなき青の瞳。
 その瞳が紡ぐ未来は、過去か未来か───。
 
 

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