四日目の朝。
 須賀家のポストに何かが投函されていた。

「何だこれ……」

 差出人を見ると、龍門渕透華とある。
 一体何を送ってきたのだろうかと箱を開けると、中には眼鏡と、それに関する説明書が同封されていた。

「……えっこれが頼んだもんなのか?」

 ためしに眼鏡をかけてみる。度は入っていない。
 右側のレンズフレーム側に設置されたスイッチを押すと、周囲の景観が一変する。
 温度が色で見分けられるようになり、通り行く人も青やオレンジなどの色で選別し、映し出されている。

「うわ、これすごいな!」

 しかし、何故竹井に頼んだはずのものが、透華から送られてきたのか。
 少し考えて、須賀は竹井が依頼を丸投げした事を察する。
 
「こりゃ後でお礼言っておかないとな」

 須賀は心の中で透華に礼を言うと、眼鏡をしまい、学校へと急いだ。
 これがあれば、いつでも桃子のことを見つけることが出来る。
 根本的な解決にはなっていないものの、その事実が須賀に活力をもたらしていた。



 放課後、鶴賀の麻雀部に出向いた須賀は、さっそく眼鏡を試してみる。
 部員の体温が色とりどりに表示され、どこが冷たいか、暖かいかが一目瞭然だ。

「あれ、須賀。眼鏡なんてかけてたっけ」

 部長の蒲原がまじまじと須賀の眼鏡を見つめている。
 しかし、須賀の目にはオレンジ色の何かが接近しているようにしか見えない。
 左目だけサーモモードを解除する須賀。

「うわ! 蒲原部長、近いですって!」

 蒲原が急接近していたことに気づいた須賀は、慌てふためき後ろに下がる。

「まったく、君は軟弱だね。女が近づいてきたくらいで情けない」
「そ、そりゃどうでもいい人だったら気にしませんよ。でも、蒲原部長みたいな人にやられたら、そりゃ慌てますって!」
「ほほう……ううむ、いい返しだ。さりげなく相手を持ち上げつつ、自分の軟弱さをうやむやにするとは」

 冷静に呟いた蒲原だったが、顔の部分の色が先ほどよりも赤くなっている。少しは照れているようだ。

「かわいいっすね」
「な!?」

 蒲原は絶句した。と、同時に、先ほどよりも更に温度が上昇していた。体全体が赤みがかっている。

「年上をからかうなっ」

 そう言うとぷいと振り返り、部室を出て行ってしまった。恐らく、熱くなってしまった体を冷ましに行ったのだろう。

「(なんかこれ、多用しちゃいけない気がする……)」

 ほんの少し罪悪感を抱えながら、須賀は奥のテーブルへ向かって歩き出す。
 左目では何も無いように見えるが、右目で見ると、そこには人型の何かがいることが分かる。

「東横」
「わっ」

 驚いた様子で姿を現した桃子。
 まさか見つかるとは思っていなかったようだ。

「どうして分かったんすか?」
「この眼鏡、サーモグラフィー入ってるんだ。だから、消えてても温度でいるってことが分かる」
「す、すごいっすね!」

 ふと、須賀はこの眼鏡があれば他の部員も桃子のことをいつでも見られるようになるんじゃないかと思った。
 しかし、それは叶わぬ願いだった。
 須賀は桃子のことを覚えていられる特例で、その他の部員は桃子のことを忘れてしまう。
 例えこの眼鏡を渡したところで、何故それを使わなければならないのかが分からなければ意味がない。
 結局のところ、この眼鏡は須賀が桃子のことを見つけるためにしか使えないのだ。

「その、東横。ごめんな、まだ俺、どうしたらいいか分かってないんだ」
「いいっすよ須賀さん。そうやって、自分のために何かしてくれてるの、すごく嬉しいっすから」

 桃子の言葉に胸を打たれた須賀だったが、そろそろ部員たちの下に戻らなければならない。
 先ほど出て行った蒲原も戻り、既に全員が揃った部室では、対局に向けての準備が進められていた。

「それじゃあ、また放課後に」
「はい」

 桃子は小さく手を振って須賀を送り出した。
 須賀はそれが、まるで今生の別れのように見えて嫌だった。
 別れる時は、お互いに心置きなく笑いあってからにしたい。須賀は後ろ髪引かれる思いで、桃子から離れていった。



 対局中も、須賀は桃子のことを目で追っていた。
 桃子は自分に起こっていることに関係なく、勉強したり、部員の打ち方を見たりしていた。
 須賀は今まで、桃子はきっと部屋の隅で一人ひっそりと部活が終わるのを待っているのだとばかり思っていた。
 けれど違った。桃子は今を懸命に生きていた。そして、再び皆と部活ができるようになる日に向けて、自分を高めていた。
 相変わらず、部員たちは桃子のことに気づかない。けれど、それでも桃子は何も言わず、ただ黙っている。
 
「(泣かないんだな……それでも)」

 強いと思った。
 きっと自分だったら心が折れていただろう。
 家族も、友達も自分を忘れ、居場所の無い日々。誰とも接することの無い空虚な時間。
 考えるだけで寒気がした。そんなもの、耐えられるはずが無い。
 たまに一人になりたいこともある。誰かをうざったいと思うこともある。
 けれどそれは、明日になればまた誰かと会えるから言える事だ。それはきっと贅沢なことだ。
 須賀は大きく深呼吸をした。必ず、桃子を助けよう。そして、彼女とこうして卓をはさんで勝負するのだ。
 決意の炎は、赤く赤く燃え盛っていた。



 放課後。いつもの時間。

「お疲れ様っす」
「ああ、お疲れ様」
「だめっすよ、須賀さん。対局中に私のほうばっかり見て」
「……気づいてたのか」

 面と向かって言われると恥ずかしい。
 須賀は思わず桃子から視線を逸らした。

「私なんか見てても、面白くも無いっすよ」
「気になったんだ」
「……かわいそうだからっすか?」

 桃子の目はさびしげに揺れていた。
 黒い、深い黒はまるで闇のようで、その奥底にはとてつもない不安を抱えているように見えた。

「同情の気持ちもあるさ。でも、気になるっていうのはそういうことだけじゃない」
「じゃあ何すか?」
「東横はこんなことになっても懸命だ。諦めないで前を向いている。すごいと思った。俺だったら泣き散らして、叫んで、それでどうしようもなくなってるだろうから」
「そう、見えるっすか」

 桃子の瞳がゆらりゆらりと揺れる。涙だった。

「本当は、死にたいくらいに悲しいんすよ。苦しいんすよ。でも、泣いたらだめって、言い聞かせて」
「……東横」
「えへへ……ヒーローは、泣いてちゃいけないんすよ。誰かの涙を拭うために、笑顔にするためにいるんすから」

 桃子は自分の中にあるヒーロー像を自らと重ね、折れそうになる心を必死に支えていた。
 
「それだけじゃないっすけどね」
「え?」
「一人じゃないっすから。須賀さんがいてくれるから、頑張れるんすよ」
「俺が……いるから?」
「一人だったら、きっとさっき須賀さんが言ってたみたいになってたと思います。昔からこういうことに慣れているっていっても、限界があるっすから」

 桃子は瞳にたまった涙を拭う。
 小さくこぼれた雫が床に落ちて消えていく。

「……すいません、私みたいな重い女に付き合わせちゃって」
「バカ。そんなこと言うな」
「だって」
「軽い重いで付き合う相手なんて決めてない。俺が付き合いたいから付き合ってるだけだ。だから、東横が謝る必要なんてない」
「……優しいんすね」
「泣きそうになってる女を前にして優しくなれないやつなんて、男じゃない」

 須賀は桃子の頭を右手でわしゃわしゃと撫で回した。
 桃子は戸惑っていたが、次第に須賀の成すがままとなっていた。

「……明日も来るよ」
「でも、もうすぐいなくなっちゃいますよね」
「その時は……うちに来い」
「え?」
「毎日顔を合わせて、毎日話して、こうやって頭撫でたり、一緒に飯食ったり……。俺が東横の家族も友達全部兼任してやる」
「そ、そんなの悪いっすよ」
「東横を見捨ててのこのこ清澄に帰るほうがよっぽど悪い!」
「……もう、優しいのか強引なのか分からない人っすね」
「狼にも羊にもなれるんだ」
「狼になってたら、私、襲われちゃいますね」
「だ、大丈夫。狼は耐える子だ」

 須賀は自分がどれだけ恥ずかしいことを言っているのか、途中から分からなくなってしまった。
 まるでプロポーズのようなことを言った気もするが、頭が湯だってしまった今の須賀には、過去の記憶など思い返す余裕は無い。

「えへへ」
「な、何だ?」
「そしたらずっと一緒っすよ? 私、きっとずっと離れないっすよ?」
「どんと来い」
「わがまま言うかも」
「頑張るさ」
「たまに消えるかも」
「その時は見つける! 絶対にだ!」

 桃子はふぅと小さく息を吐くと、にこやかな笑顔で。

「その時は、よろしくお願いします」

 恥ずかしそうにそう言った。



「……って、何よ。ノロケ話を聞かせるために電話したの?」
「ち、違うっすよ」

 その日の夜。須賀は再び竹井に連絡を取っていた。

「あれは最後の手段ですから。それをやっちまったら、もうずっと鶴賀と縁が切れたままになる」
「ま、そうよね。正直、二人で生活なんて、きっと持たないわよ」
「方法、考えないと」

 須賀と竹井はいくつかの確認をした。
 ステルスの能力、鶴賀麻雀部の現状。そして記憶のこと。

「東横桃子、一年。鶴賀の麻雀部で、ステルス能力を持っている」
「ええ、そうですけど……」
「変ね、敦賀の部員は皆東横さんのことを忘れているんでしょう。でも、私も覚えているわよ」
「そ、そういえば」

 桃子のステルス能力により、桃子に関する記憶はすぐに消えてしまう。それが敦賀で確認したことだった。
 しかし、こうして竹井は今日までその記憶を保持している。その違いは何か。

「部長は直接東横には会ってないですよね。俺が伝えた情報だけを受け取って、それを覚えていた」
「そうね」
「つまり……伝聞でなら、桃子のことは覚えていられる?」
「そうかもしれないわ」

 また少し希望の光が見えてきた気がする。もう一歩、まだ情報がきっとあるはずだ。

「つまり、直接会わなければいいってことですよね。東横を鶴賀の部員から隔離したらどうなるんでしょう?」
「……失った記憶が返ってくる? そりゃないでしょ。それに、結局それじゃ東横さんは鶴賀にいられなくなるわ」

 まだダメだ。もっと確実な方法を探さなければ。

「東横を鶴賀においたまま、部員たちの記憶を取り戻す方法……」
「いるけどいない、いないけどいる」
「な、何です突然?」
「東横さんの状況よ。いや、ステルスの特徴とでもいうのかしらね。いるはずなのにいない。でもいないはずなのにいる」
「もしかして、ステルスの根源から遡るつもりですか?」
「どの道、強くなったステルスを元通りくらいにしないと、記憶を取り戻してもまた失っちゃうでしょ」
「そ、そうですね……」

 ステルス能力。
 他人に自分を悟らせない能力。あたかも自分の存在が消えるかのようだが、実際は消えてなどいない。ただ、認識できないだけなのだ。
 いるけどいない、いないけどいる。まさにこの言葉通りだ。
 その能力が高まり、周囲から自分に関する記憶すらも奪うようになってしまったのが、今のステルスだ。

「東横が言ってました。もし、今の自分を見れるのがいたら、神様くらいだろうって」
「神様ねぇ……」

 その言葉に竹井はぽんと手を打った。

「そう、神様。いるけどいない、いないけどいるって、神様のことじゃない」
「え? そ、そうですかね」
「ほら、受験の時とか神頼みするじゃない。ああいう時、私たちの心の中には確かに神様はいるのよ。見えないけど」
「いるけどいない、いないけど……いる。確かに。でも、それが東横のステルスとどういう関係が?」
「神様が『いる』っていうのを、須賀くんはどうやって知る?」
「え……そりゃ、神社に書いてある『なんとかの神』とかいう文字とか、後は郷土資料とか、ネットとかで調べて」
「そう、私たちは神様を実際に見ていなくとも、そこに神様がいるということを理解できるわ。人、それを信仰と言う!」

 信仰。須賀にはとんと耳遠い言葉だった。
 元々無宗教であるし、神社などにお参りなど数えるほどしかしたことがない。
 ただ、やはり受験の時は学業成就のお守りを買い、神様に祈った。その時だけは確かに須賀も信仰と言う言葉に縁があっただろう。

「神様を東横さんに置き換えて考えてみて」
「……東横桃子という人間の存在を証明するには、文字や資料などの文献に記し、多くの人に理解させ、信仰させることが必要?」
「その通り!」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! 信仰って、東横はただの学生ですよ!?」
「須賀くん、あなたは勉強で学年トップを取った人をどう思う?」
「え、そりゃあすごいなって尊敬しますよ」
「そんなんでいいのよ。信仰って大げさに言ったけど、尊敬したり、好意を抱いたり、そんなのでいいのよ」
「それでステルスの能力を弱められるんですかね?」
「ステルスがいじってるのって、記憶だけでしょ。文献とかに記されちゃうと、忘れてもまた覚えることが出来る。
それが何十、何百と連鎖していったら、ステルスなんか目じゃないくらいの情報量になるわよ。噂は噂を呼ぶから」

 須賀は今までの情報を整理する。
 ステルス能力を打ち破るには、桃子のことを多くの人に知らせればいい。
 とはいえ、東横桃子は普通の人間で、取り立てて特徴のあるタイプではない。
 芸能人のように写真集やエッセイなどを出しても見向きもされないだろう。
 それならばどうするか。東横桃子は何が出来るのか。

「……ネット麻雀!」

 そうだ、ネット麻雀だ。
 ネット上ではリアルの存在感は関係なく、打ち込まれた文字が直接相手に転送される。
 ネットを介せば、桃子のステルスを無効化しつつ、相手に情報を伝えることが可能だ。
 麻雀であればなおさらだ。
 麻雀は今やこの国の主要なゲームとなっている。毎日、何万と言う人間が、何万と言う対局を行っているのだ。
 そこで勝利を続ければ、きっと桃子は目立ちだす。原村和のように、神格化されるほどになるかもしれない。

「部長!」
「いけそうね」
「はい!」
「よし、じゃあ明日に備えてもう休みなさい。激戦になるわよ」
「部長……ありがとうございます!」

 須賀一人では到底たどり着けなかっただろう。
 竹井という心強い先輩を持てたことを、須賀は誇りに思った。

「健闘を祈るわ」
「頑張ります!」

 通話を切ってもなお、須賀の体には熱が残っていた。
 ようやく見えた希望の光。天から垂らされた一本の糸を、ようやく掴むことができたのだ。
 滾る思いを落ち着かせつつ、須賀は桃子のことを考えた。

「絶対に助けてやるからな!」
 

 

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