睡眠時間は約二時間程だった。
ここまでの寝不足は、透華にとっては初体験で、授業中にふと訪れる睡魔との死闘は熾烈を極めた。
龍門渕と名がついた以上、だらしのない格好を見せるわけにはいかないという自負が、ひたすらに眠気を殺していたが。
「も、限界ですわ……」
昼休みを利用して自宅に戻り、仮眠を取る。
放課後は清澄に行かなければならないことを考えると、とにかく休まなければならなかった。
「清澄……」
呟いた言葉が像を結び、ある人物を連想させる。
その瞬間にはっと目が覚める。心臓の鼓動が早くなり、体が熱くなっていく。
「もう!」
寝ようと思っても眠れない。だからといって起きていると辛い。ひどいジレンマだった。
それもこれもあの男のせいなのだが、認めるのは癪だ。
「須賀ぁ……麻雀の先生に対して、ひどい仕打ちですわぁ……」
枕に顔を埋めて、浮かんでくる映像を必死に消していく。
認めてしまったら、きっととんでもないことになってしまう。そんな予感があった。
透華に出来ることは、この熱が過ぎ去るまで、ひたすらに待つことだけであった。
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結局、仮眠は取れずじまい。
透華はドリンク片手に授業を乗り切り、清澄へと向かうこととなってしまった。
「(き、緊張してきましたわね……)」
正直に言えば、須賀と対面するのが怖くてたまらない。
自分の中で、未だかつて感じたことの無いモノが蠢き、心を支配している。それが恋愛感情なのか、はたまた別のものなのかは分からない。
だが、とにかく須賀に原因があることは間違いないのだ。
あの惚けた顔のどこに、透華を不安にさせる要素があるのかなんて、きっと須賀本人にだって分からないだろう。
分からないから、怖い。
徹夜に近い状態で、妙に高揚した気分の透華だったが、沸き立つ不安の芽との相乗効果で吐きそうな程まいっていた。
今は麻雀部室の前、立ち止まる透華の緊張はピークに達した。
「こ、こういう時に言う言葉……な、なむ……」
「南無三?」
「そう、それですわ! ……ってぇ、須賀っ!?」
振り返るとそこには、まさに渦中の人物である須賀がいた。
呼吸を整える暇もなかった。いきなりの遭遇。
「しかしまた、何で部室に入るのに南無三だなんて……。何か悪いことでもしたんですか?」
「べ、べべべ……別に。ないもしてりゃいですわよ」
思いっきり噛んだ。
舌が上手く回らない。情けないことに、舌までもがまいってしまっているようだ。
「お、おいおい……。噛みすぎってか、えっと、もしかして体調悪いですか?」
俯き、視線を合わせないようにしていた透華の顔を覗き込む須賀。
視線を少し上げる透華。目が合った。ぴったりと、しっかりと合ってしまった。
「(み、見詰め合う瞳。触れ合う手。重なり合う唇……)」
いつかの妄想がフラッシュバックのように蘇る。
その瞬間、透華の意識はぷっつりと切れた。
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「ここは……?」
気がつくと、透華はベッドで横になっていた。
自分の部屋ではなく、見たことの無い場所だった。
「(これが知らない天井、なんて……)」
見回してみると、どうやらここは保健室のようだった。
記憶が曖昧だが、恐らく倒れた透華をここまで運んできたのだろう……須賀が。
「う、うわ……思い出さない方がよかったかもですわ」
今この場に須賀がいなくてよかった。
もし、こんな赤らんだ顔を見られでもしたら。見られでもしたら……?
「どう、なってしまうの?」
透華自身、今の透華の心はまったくもって分かっていなかった。
ただ、一つだけ分かることは、須賀との接触は自分にとって刺激的過ぎるということだけだ。
まさか倒れてしまうとは思わなかったが。
「ひとまず、今日は部活は無理そうですわね」
無理をして部活をしても仕方が無い。ひとまず、萩善に連絡をして───。
「おっ、目を覚ましたんスね!」
どくん。心臓がひときわ大きく跳ねた。
間違えようが無い。この声は……。
「びっくりですよ、いきなり倒れるんですから。体調が悪いなら、無理しなくていいんスから」
「え、ええ。迷惑をかけましたわね」
しどろもどろになりながらも、透華はいつもの透華を装う。
「もう大丈夫ですか?」
「元々大したことありませんわ。ちょっと寝不足だっただけですし」
「あはは。そうだったんスか」
透華が必死に感情を抑えているというのに、須賀はまるでそんなことには気づかずいつも通りだ。
そのことは透華を安心させもしたし、怒らせもした。
「(人がこんなに思い悩んでるというのに、馬鹿笑いなんてありえないですわ!)」
透華自身、そうした矛盾した思いに違和感を覚えている。だが、そうした事柄をロジカルに整理できる透華は、現在休息中のようだった。
「悪いですけど、今日は一応大事を取って帰りますわ」
「あ、そうですね。寝不足って言っても馬鹿にできないし……俺、送ります」
再び心臓が跳ね上がる。
さっきから妄想のスイッチは入りっぱなしだ。
些細な言葉でも、そこからどんどんと思考の波紋が広がってしまう。
送る。送る……。家まで送る? 家に来るということ?
「だ、駄目ですわ! いいいきなりそんな、家に来るだなんてそんな。は、は、はしたない!」
「え……いや、その、何を言ってるんですか?」
「で、ですから! あなたがわたくしのことを送ると!」
「いやいや、龍門渕さんは車じゃないですか。校門までってことですよ」
そう言われて、透華は一気に力が抜けた。
張り詰めていた糸が、突然緩められ、思わずため息もこぼれる。
「そ、それならそうと最初に言いなさい!」
「普通そう思いますって! どんだけ桃色思考してるんスか!」
確かに、言われて見れば焦りすぎていたのは透華のほうだ。
よく考えればすぐに分かったことだというのに。
「それにしても……何ていうか、龍門渕さんの印象って随分変わりましたよ」
「そ、そうですの?」
他人からどう思われるか。それは高貴なる龍門渕にとっては重要なことだ。
常に他人の上に立ち、誰かを導く。そのための努力は惜しむべからず。
透華ももちろんその教えは守ってきた。勉学にスポーツに、出来うる限りの努力を重ね、今の透華があるのだ。
「その、差し支えなければその印象とやら、聞かせていただけます?」
「う〜ん。最初に見た時は怖そうだなって。何か尖った感じだったんスけど……。こっちに来て改めて見たら……」
須賀は言葉を選ぶように、視線を宙に漂わせる。
「すごく優しかった!」
「や、優しい……?」
「俺みたいな端っこ部員に麻雀教えてくれたり、紅茶入れたり掃除したり」
「そんなの、大したことではありませんわよ」
「小さな気配り、大きな感謝って感じです」
「誰の言葉ですの?」
「俺の言葉です!」
誇らしげに胸を張る須賀。思わず透華も吹き出してしまった。
こういう男なのか。会って四日目にして、ようやく透華は須賀京太郎という男のことを理解できた気がした。
「もう龍門渕さんは部長! って感じですよね。人の上に立つべくして生まれたみたいな」
「あら、部長じゃありませんわよ」
「嘘っ!?」
「龍門渕は全てが対等であるように、そういった役職じみたものは存在しませんの。まあ、取りまとめているのは確かにわたくしですから、部長といっても差し支えは無いのかもしれませんけど」
そう言うと須賀は、そうだそうだと強く頷いた。
彼的には、透華が部長でないというのは、どうもしっくりこないことだったようだ。
「何ていうか……」
「ん? 何ですの?」
「いや、恥ずかしながらこの須賀、今まで出会ってきた誰よりも、龍門渕さんが輝いてみえたのであります」
「……まあ、褒め殺しですこと」
須賀の言葉はとても嬉しかった。だが、今の心情的に、そういった類の言葉は素直に受け取りにくかった。
何故ならば、透華は原村に負け通し、ライバルだと思っていたのは自分だけだったと思い知らされたからだ。
弱さは罪だ。弱ければ誰かを従えることも出来ないし、己を信じることも出来ない。
透華に敗北の経験がまったく無いわけでない。だが、一度敗北した相手には、ことごとく逆襲を遂げてきた。今回の原村との戦いもそうするつもりだった。
「(衣に引き続き、何度やっても勝てないとは、思いませんでしたが)」
寝不足で倒れてしまった透華であったが、須賀のことだけではなく、そういった心労も祟ったのかもしれない。
ずっしりとのしかかった『敗北』の二文字は、今も尚心に重圧をかけ続けている。
そんなこととは知らず、須賀は思ったとおりに言葉を並べる。
そして───。
「憧れなんですよ」
「え?」
「龍門渕さんみたいな、あらゆる面で強い人になりたいって、ずっと思ってたんスよ」
「わたくしの、ように……?」
「麻雀は強い、人望も厚い、さらには心も強い。すごいことです」
違う。透華は呟いた。
自分は弱い人間だ。どうしようもない壁に当たって、何も出来ずにいる。
徒党を組むのは弱さのため。心など……既に折れそうだというのに。
「憧れなんて───」
「え?」
「わたくしなんかに、そんなもの抱かないで下さいっ!!」
今日一番の大声だった。
喉がヒリヒリと痛み、頭がくらりとする。
そして何より、心が押しつぶれそうだった。
透華はベッドを飛び出し、驚きで固まっている須賀の横を駆け抜けた。
須賀は動けなかった。ただ一言の拒絶がきいたようだった。
校門を出た透華は、がっくりと膝をつきたい気持ちをぐっと抑え、萩善に連絡をとる。
透華は清澄を振り返ることなく、そのまま歩き始めた。