透華が倒れたから保健室に連れて行く。
 そう須賀からの報告を受けた竹井であったが、その次には『突然走り出して、いなくなってしまった』と言われ、思わず自分の耳を疑った。
 竹井が透華の自宅のほうへ連絡を取ると、大事無く帰宅したというので、その日はそのまま何も言わず、次の日を待った。
 五日目。透華は来なかった。
 竹井は須賀だけを部室に招き、昨日のことを問いただすことにした。

「須賀くん。何かしたんでしょ」
「ちょ、ちょっと待ってくださいって……何も、何もしてないはずですから」
「はずって何よ? 和があんまりにもガードが固いもんだから、ちょっと浮気したくなったとか……」
「ないですって! つか、浮気もなにもないでしょうがっ!」

 竹井は考える。
 須賀は何か、透華の触れてはいけない領域に触れたに違いない。
 この須賀という男、健全な男子であるとはいえ、いきなりアレな行為を強要するような人間ではない。
 となると、大切なのは会話の内容だ。

「何を話していたのか思い出して」
「えっと、龍門渕さんがすごいって話を」
「はぁ」
「それだけです」
「ええ!? 嘘でしょ!!」
「本当なんですって! その、龍門渕さんみたいな強い人に憧れますって、そう言ったら……」

 中々に難しい。
 褒められすぎて気分が悪くなった?
 須賀に憧れられるのが嫌だった?
 だとすると、透華の心理は───。

「須賀くん、お茶」
「えぇ……引っ張っておいて何ですかもう」
「いいから。喉渇いたのよ」

 須賀はしぶしぶと給茶に向かう。
 透華から仕込まれた紅茶のおいしい淹れ方とやらは、随分と上達していて、以前の適当な入れ方で淹れた紅茶より、格段に美味しくなっている。
 とはいえ、それすらも透華に言わせれば『まだまだ』らしいが。
 ややあって、運ばれてきた紅茶を受け取り、竹井はもう一度考えをまとめる。

「須賀くんが憧れてるって言ったら、怒ったわけよね」
「まあ、そうなんですかね」
「憧れの対象になるのが嫌って、よっぽど卑屈なのかしらね」
「そんな、だって龍門渕さんですよ?」

 龍門渕といえば、威風堂々とした出で立ちがまず思い浮かぶ。
 とてもではないが、人に憧れられるのが嫌だという感じではない。むしろその逆だろう。

「まあでも、その辺は凡夫の発想よ須賀くん」
「ぼ、凡夫……」
「我々がどう思おうと、結果的に彼女は須賀くんの憧れの対象となりたがらなかった。つまりそれが真実なのよ」
「う〜ん……俺、嫌われているとか?」
「逆でしょ。好きだからこそ、自分なんかにっていう考えよ」

 竹井の中で考えがまとまっていく。
 地獄待ちがモットーな竹井だけに、追い詰められると強いのだ。
 
「そういや彼女、ここに来てから和に一回も勝ててないわね」
「そういえばそうっスね」
「結構ライバル視してるみたいだったんだったし、気にしてるんじゃない?」
「そ、そうですかね? 和の方は全然そんなの……」
「ふっ、なるほど。片思いの一方通行ね!」

 竹井の頭がかつて無いほどに活性化する。
 脳内麻薬でも分泌されているのではないかと思うほど、思考は早くクリアであった。

「和に対するライバル心、勝てない自分、当の和はそんなこと意にも介しちゃいない」
「うわ、何かちょっときついかも」
「ちょっとどころじゃないでしょ。目標見失っちゃうレベルよ。相当堪えたんでしょうね」
「あ、そんな時に俺が憧れているとか言ったから……?」
「うん、卑屈になっちゃったんでしょうね」
「うわー! 本当に俺のせいだったのか!!」

 頭を抱えて悶絶する須賀。
 中々見られない光景だけに、竹井ももうしばらく鑑賞していたかったが、すぐに気持ちを切り替える。

「クネクネ妙な動きをしてる場合じゃないわよ。さっさと行って、さっさと解決してきなさい」
「行くって、龍門渕さんの家にですかぁ!?」
「当たり前よ。今日は学校も休んでるみたいだから、一日中家にいるわよ」
「いや、俺もこの後授業があるんですけど……」
「授業と女、どっちが大事?」
「もちろん女ですっ!」
「よろしい!」

 竹井は携帯で素早くどこかへ連絡する。
 慣れた口調で会話をし、十秒ほどで切る。

「部長、どこへ連絡を?」
「ちょっちね。あの龍門渕家に入るには、これくらいしないと」
「うん?」
「さ、ぐずぐずしている暇は無いわよ。急いで屋上へ行きましょう」
「ええっと……事情がよく飲み込めないんですが」
「つべこべ言わない! 黙ってついてくる!」
「は、はい!」



 龍門渕家、透華の自室。
 ついに授業をサボってしまった。
 仮病で休むのは気が引けたが、実際こんな精神状態では何一つ手につかないだろう。
 好意を向けてくれた須賀に対し、透華はそれを受け止めることが出来なかった。

「あぁ……困りましたわね」

 会って謝りたい。しかし、自分の心はずっと曇り空が続いていて、恐らくあの時のようなことを言われたら、また同じことになってしまうだろう。
 根本的に問題が解決しなければ、結局透華は謝る事すら満足にできないのだ。
 そんな自分が情けない。そう思えば思うほど、透華は卑屈になっていく。
 食事も喉を通らない。ほんの少し紅茶を飲んだが、それだけだ。

「紅茶……。須賀はちゃんと教えを守っているのでしょうか」

 自分で言っていて、何をこんな時にと思った。
 紅茶のことなんかよりも、あんな別れ方をしてしまった方がよっぽど問題だ。
 嫌われただろうか。きっと意味の分からない女だと思われたに違いない。
 それならそれでいい。時期が過ぎれば、きっともう会うこともないだろうから。
 けれど、けれども。

「なんて、悲しい……」

 涙が出そうだった。
 こんな別れ方は嫌だ。しっかり笑って、七日目にちゃんとお別れしたかった。
 けれども心に巣食った黒い霧が、透華の手足を拘束している。
 このまま、何も出来ないまま終わるのか。
 そう、透華が絶望を口にした時だった。

「と、と、と、透華ぁ!」
「は、一? どうしてここにいるのです。学校は───」
「透華が心配で戻ってきたんだよっ! それより、ほら、外見て外っ!」

 何事かと思い、窓を開けると───。
 
「うおおおおおお!! 寒いっ! 風が冷たいっ!!」

 旋回する羽が風を切り裂く。ごうごうと音を立てて、草花が巻き上げられていく。
 ローターの回転は爆音を生み、周囲にその存在を力強くアピールしている。
 小型のヘリコプターであった。
 そして、その搭乗席から身を乗り出しているのは───。

「須賀っ!」

 須賀京太郎。麻雀は初心者で、要領も悪い。取り柄といえば明るいことくらいの男。
 今、彼はがっしりとヘリの搭乗口に手をかけ、後ろの操縦席と何かコンタクトを取る。
 次の瞬間、彼はヘリから飛び降りた。

「ちょっ! マジですの!?」

 須賀の腰にはロープがくくりつけられていて、須賀の動きに合わせて、少しずつ長くなっていっている。
 それを固唾を呑んで見守る透華。一秒が何時間にも感じられる程の緊張。ヘリの爆音も気にならない程に、二人は集中していた。
 やがて、須賀の足は透華の部屋のベランダへとかかる。
 須賀は大きく息を吐き、自分をここまで運んできたロープを取り外す。

「ありがとー! もう大丈夫ですー!!」

 ヘリに向かって大きく手を振ると、ヘリはそのまま旋回し、龍門渕家の敷地から飛び去った。

「よっ、おサボりさん」

 がくっと、透華は膝から崩れ落ちた。
 緊張の糸が文字通り切れたのだ。

「透華っ!」

 後ろから一が声をかけたが、透華にはまるで聞こえていなかった。
 その視線は、目の前の男だけに。

「あなた……本当に馬鹿でしたのね」
「まあ、ご覧の通りで」

 悪びれた様子もなく、しれっと言ってのける須賀。
 昨日のいざこざをまるで感じさせないその喋り方だ。

「あの、昨日は……」
「ちょっと待って欲しい。色々とこっちも言うことをまとめてきたんで」

 一体なんだろう。
 恨みつらみの類? それとも昨日のことはなかったことにしようとか?
 透華はぺたりと床に腰を落としたまま、須賀を見上げる。

「昨日は……言葉が足りなかったっ!」
「……はい?」
「つけたしみたいになっちゃうんスけど。俺は、龍門渕さんが強いから憧れたって訳じゃないんです」
「じゃあ、どうして?」
「龍門渕さんは、たとえ打ち負かされてもまた立ち上がれる闘志を持った人だ! そしてまた、敗北の向かい風にさらされる事の辛さ、弱さも知っている……」
「そんなもの、弱さなんて何にもなりませんわ。弱いものは淘汰され、後にも先にも残らない……」
「一人ならきっとそうなってしまう。だから、俺たちは手を取り合うんじゃないですか。仲間を作るのは、決して弱さを隠すためじゃなく、弱さを認め、強くなるためなんですよ」
「けれど、けれどわたくしは……龍門渕なんですのよ! 龍門渕は、強くなければ、強く生きなければなりませんの!」
「ならば……強さってなんですか!?」

 ───強さ。
 負けないこと。並ぶものの無いこと。
 勝利することが、勝利しなければ強くはなれないと思ってきた。
 誰かを打ち負かすことが強さ。人の上に立つことが強さ。
 けれど、けれども。それが果たして本当の強さなのだろうか。

「……強いということは、弱さの裏返しじゃない」

 口が自然に動いていた。

「弱さを知らなければ、強さを知ることは出来ない。敗北がなければ勝利は無い。二つは一つ」

 透華は今まで、ずっと表と裏のカードの表だけを見ていた。すなわち、勝利というカードを。
 しかし、勝利の裏には敗北がある。二つは表裏一体。分けて考えることの出来ないものだ。

「強さの反対は……諦め。そこで停滞し、何も出来なくなってしまうこと!」

 それはまさに今だ。
 透華の塞ぎきった心は、戦いを諦めてしまっていた。
 透華の言葉に、須賀は大きく頷いた。

「龍門渕さんは、負けても立ち止まらなかった。前を見ていた。足を動かしていた。だから、憧れたんですよ」
「……須賀」

 曇っていた心に、一筋の光が指した。
 次第に開けていく空の色は、抜けるような青。
 
「でも、わたくし、やっぱりあなたの憧れになるような人間ではありませんわ。だって今になってこんなに思い悩んでいるんですもの」
「たどり着く場所は同じでも、きっと龍門渕さんは走ってそこまでいくと思うんです。回りがゆっくり歩いている中、すごい速さで」
「まあ、まるで協調性がありませんわね、わたくし」
「それでいいんですよ。龍門渕さんが走れば、それに次いで走る人が出てくる。それは次第に大きな波紋となって、みんなが走る。……だから憧れなんですよ」
「もう……まったく、いい加減そういうのやめなさい」
「あはは、すんません」

 どこかポエムじみた言葉だったが、透華の心にはこれ以上ないほどに染み渡った。
 そう、それこそが自分の目指しているものではなかったのだろうか。
 原村がどうとか、勝敗がどうとか、それは重要なことではあるけれど、必要なのは、動くことだ。
 透華は大きく息を吸い込んだ。
 今度こそ、透華の心は晴れ渡った。一面の青空だ。

「───須賀」
「何です?」
「憧れるのは勝手です。ですが、公言した以上、行動で示してもらいますわよ」
「……もちろん!」

 満面の笑みが二つ、青空の下に咲き誇った。
 
「わたくし、弱いだけの男は好きじゃありませんの」

 

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